多くの人たちが来場して、熱心に“船”たちを見てくれた第35回帆船模型展は暖かな好天にも恵まれ、来場者数は6,811人と昨年より200人ほど多く、盛況裡に終了した。出品作品数は、ジオラマ、レリーフを合わせて61点、塩谷、川島会員が担当した「教室」受講者の処女作品“チャールズ・ヨット”が8隻並び、いずれも講習一年の丹精を見せていた。
今年の会場で感じたことは、個性ある“船”が多く出品され、近年になくすっきりとした展示になったことだ。教室の優等生を卒業して、作品の中に己を演出した作品が出てきたことを喜んでいる。また、予期せぬことながら、出品船の時代相もほどよく配分され、様々な模型の面白さが見られたのも、今回の展覧会を盛り上げた一因となった。第一回展以来、カメラを通して出品作品を見てきた私には、近年の傾向として、明らかに教室の影から抜け出せない作品が教室作品展示のコーナー多くなっていたこと、これは教室の成果が顕著に上がっていることを示すものではあろうが、その画一化に寂しさを感じていたものだった。ユニークな作品の筆頭は、安藤雅浩さんの「フランダースのガレオン船」だ。
この船は、帆船模型ファンのバイブルとも言うべきビヨールン・ランドストローム著作のイラスト本「THESHIP」(邦訳/星と舵の航跡、後に普及版として"世界の帆船"と題して復刻された。ノーベル書房)に記載された1953年建造のガレオン船である。この船は16世紀の最も美しい帆船として、模型がマドリッドの海事博物館に展示されている。安藤作品の船体に施された精緻を極めた装飾の彫刻は、プラ材を切り出したもので、一見平凡ながら、これまで誰も手を付けられなかった手法である。今後は、クリッパーの船首・船尾にある唐草模様作りなどに、大きな助けになるだろう。
竹本喜道さんの幕末・明治の船シリーズも、今後が期待される。第33回展出品の「戸田(ヘダ)」に始まり、34回展には「千代田(初代)」、そして今回は「迅鯨(じんげい)」へと発展した。今に残されているのは錦絵だけという極度に少ない資料集めから始まる労作には感服させられる。今回は、坪井悦郎さんの精密ミニチュアーの出品が無かったが、代わって緻密な工作に感嘆の声が上がっていたのは、金森弘一さんの「樽回船・高田丸」と佐藤憲史さんの「ファニー・ゴーラム」。大島勲さんの大型模型「ソブリン・オブ・ザ・シーズ」の緻密なリギングの工作だろう。
近年出品が多くなったのがジオラマだ。常連である肥田純さんの出品が欠けたのが寂しかったが、それを埋める傑出した作品が集まった。会場での一番人気をさらったのは中園利孝さんの「菱垣廻船・豊晴丸」。 大阪と江戸を結ぶ千石船の海上輸送を面白くジオラマにしている。ずっこけた船乗り、帆桁に止まる鳥や、漂流民救助の縄に鋏をあげたカニや海蛇がまといつく など、中園ワールドとも言うべきユーモアが、ともすればスクェアーになりがちな博物館模型(これが私たちロープの製作主体なのだが)に劇画を見るような面 白さを加えてくれた。また、東海道を行く江戸飛脚と同じ日数で航海したことや積荷の量は、はしけ何杯で 計ったなど、新知識も教えられた。これは32回出品の「ランヴォオックのボート」の発展形と見たが・・・・。
今年も伊東屋の好意によるオープニング・パーティーから展覧会の幕上げをした。これが伊東屋で連続して開催する最後の展覧会と思うと、かざす杯にも、こも ごもの思いがこもる。店内に飾られた「ザ・ロープ帆船模型展」の掲示看板も、今年が最後と35年の年月を重ねた思いに駆られたのは、入会番号が古い私個人 の感興だけだろうか・・。そんなセンチメンタルな思いのままに、昔を書かせてもらう。
手元にある1975年(S50年)10月、会の発足に際してまとめた会則は、設計図面に使われていた青写真の手書きコピーだ。黄色く変色していて、手荒に ページを開くと破れてしまいそうだ。「模型の船(木材を主材とする模型の船)の製作を趣味とする紳士的な会員の知識、技能の向上と合わせて相互の親睦と交流を図る」とある。
いま振り返ると、“木材を主体とした”とか“紳士の集まり”とか、気障な言葉を連ねたな~と思う。というのも、当時、帆船模型キットは非常に高価だ田中会 長の開会挨拶った。36年前、私が初めて伊東屋で買った英国フリーゲート「ブリガレン・ギャレー」のキットは、3万7千円だった。この値段は、今でも余り
変わっていないと思う。42歳でサラリーマンの私には、それこそ思い切った買い物だった。プラモデルの向こうを張って、俺たちこそが、本格模型を造る仲間 だと主張したい自負が見え見えである。
入会金が1,000円で、年会費は2,000円で一括納入。さらには、必要に応じて臨時特別会費を徴収するとある。1977年(S52年)4月に初めて会 員名簿を作った。これも手書き青写真のコピーである。当時の会員数は35名で、いまも名前を連ねているのは、津久居廣さん(No.2)。奥村義也さん
(No.3)、坪井悦郎さん(No.9)、青森の肴倉忠さん(No.10)と私(No.7)の5人だけになった。肴倉さんは国鉄職員で、特急列車乗務と言 う特権を生かしての遠隔地入会だった。No.11は白井一信さんで、続くNo.12には伊東屋の伊藤恒夫社長の名前がある。
1976年(昭和51年)の第一回展は、伊藤恒夫社長の肝いりで、伊東屋が初めて開く展示会であり、新設されたギャリーのこけら落しとして開かれた。ギャ ラリー開設は、銀座文化を謳う資生堂の向こうを張ったもので、拡張路線を歩み出した伝統ある文具店、伊東屋の心意気でもあった。第一回展は、来場者
8,500人と、予想を大きく上回る大人気となった。来場者名簿には、船キチ、柳原良平さんは勿論だが、ソニー会長の井深大、森繁久弥、E.H.エリッ ク、早乙女貢さんなど、そうそうたる有名人の名前が連なっている。
当時、私は、日本雑誌協会の役員をしていた関係から、各メディアに友人知己が多く、“日本で初の第一回展を見る先々代伊東屋社長と本格的帆船模型展”と大 宣伝をしまくった甲斐もあってか、街ネタ・ニュースとしてだけでなくTBSの人気番組「3時に逢いましょう」フジTV「小川宏ショー」など,TV、新聞、
雑誌等に広く取り上げられたのも幸いだった。やがて「銀座の正月はザ・ロープの帆船模型展で明ける・・・・」と言われるほどに恒例化し、毎回50~60点 の作品が出品され、7~8千人の来場者を集める銀座最大の催しの一つになった。
今年の会場は、3面の壁を、これまでの案内ハガキの拡大コピー、出品リストなど、35年にわたる「ザ・ロープ」展の足跡をたどる展示で埋めた。これは肥田 さんのアイディアである。ユニークな発想と独特なタッチで評判だった宮島さんが描く案内状は、いま見ても新鮮さが失われない。改めて感銘を深めた。出品リ ストの表紙に使った帆船の写真は、私の撮影遍歴を振り返るものでもある。
伊東屋帆船模型展を通して、「ザ・ロープ」は銀座に、東京の中心で活躍するのが、私たちの誇りであり、存在意義だった。それは新都心新宿でも、渋谷でも、 池袋(ここはマイシップ・クラブの本拠)でもない。これからもギンザとその周辺こそが、私たちのあるべき場所だと願っている。来年は、有楽町駅前の交通会
館に展覧会場を移す。伊東屋を離れ、35年の歴史を生かした私たちの力が、改めて問い直される新時代が始まろうとしている。
(東 康生)