グレート・ブリテン及びアイルランドの海軍卿事務代行者たる海軍委員会より、国王陛下の海軍艦長ホレイショ・ホーンブロアに対し以下のごとく下命する。貴官はここに・・・
・・・ここに貴官は直ちに乗艦して指揮をとり、艦長の職務を果たすべきを命ず。当該カッター艦の士官及び乗組員全員をして、全員一致して、あるいは個別に、同艦々長たる貴官に対する正当なる尊敬と服従をもって行動せしむるよう、厳正なる指揮と職務の遂行こそ肝要なり・・・危機に際しては、適切にこれに対応し、貴官及び部下の一人たりとも、過誤を冒すべからず・・・
若い海軍軍人ならだれでもが渇望する一艦の艦長として指揮を執るには、まず乗組員全員の前で任命書を読み上げなければなりません。その内容のおおよそが上の通りなのですが、上段はホーンブロア・シリーズの第4回『トルコ沖の砲煙』で、ホーンブロアがシップ型スループ艦アトロポスの艦長に就任した時、後段はラミジ艦長シリーズの第1巻『イタリアの海』で、ラミジがカッター型スループ艦カスリンの艦長を命じられたときに読み上げた任命書です(上は高橋泰邦訳、下は山形欣哉/田中航訳)。
全文は分からないのですが、おそらく任命書はいつも同じ内容だったと思われます。まず艦長は「海軍委員会」から任命されること、またこの艦の運用にあたって絶対的な権限が与えられていること、更に艦長も部下も問題を起こせば容赦なく軍法会議で罪を問われることが間接的に示されています。具体的にいえば、戦闘で負けたら軍法会議にかかるのは間違いない、ということです。
こうして任命された「神の如き艦長」は「軍法会議―あるいは国会の法令—をおいて何者も剝奪することのできない身分である(高橋泰邦訳)」ということになります。また任命書に「直ちに乗艦して指揮を執り」といっているように、この時ホーンブロアもラミジもその艦の「指揮権」を握ったことになるのです。軍隊での指揮権とは絶対的なもので、この制度がなかったらそもそも軍隊が成り立ちません。具体的にいうと、命令する指揮官がいて、その命令を確実に実行するのが乗組員ということです。その意味で、一艦の艦長は「ポスト・キャプテン(勅任艦長)」や「コマンダー(海尉艦長)」というより、軍制上はその艦の「指揮官(OIC=Officer in Command)」といった方がぴったりします。
そのために、何らかの形でこの権限を変えようとすると大きな問題が起こるのです。当時の軍艦で一番重い罪は「反乱」ですが、「抗命」つまり命令違反や上官に対する反抗も指揮権に対する重大な犯罪として罪に問われ、確定すればほとんど死罪です。艦長といえども生身の人間ですから、戦闘で死んだり、病気で退職したりします。こういった場合ははっきりしているので、次席の者か任命者に指揮権が移譲されるので問題は起きません。
そうでない場合、つまり現状の指揮官が任務に耐えられそうもないような状態になったときの指揮権の委譲は、極めて微妙な問題を起こします。ホーンブロア・シリーズの第2巻「スペイン要塞を撃滅せよ」がその好例です。戦列艦レナウンのソーヤー艦長は、小心者で大変猜疑心が強く、士官同士が語らって自分に背くのではないかと疑い、常に部下の士官たちに監視の目を注いでいます。気に入らなければ、落ち度もないのに昼夜の当直を命じたり、1時間ごとに報告に来いと強制したりします。
そのソーヤー艦長があるとき昇降階段から落ちて重傷を負います。任務遂行中の軍艦ですから、指揮官なくては運営できません。明らかに能力がないならば副長(一等海尉)のバックランドが艦長の代役を務めるのですが、確たる証拠がなければ後の軍法会議で反乱の嫌疑で究明されかねないので、そこは慎重にならざるをえません。
副長のバックランドは軍医のクライブに向かって問い詰めます。
「きみの意見では、艦長は勤務できる状態かね?」
「それが——」クライブはもう一度言った。
「どうだね?」
「差し当っては、多分駄目でしょう」(以下高橋泰邦訳)
十分に満足できる返答ではないのですが、指揮官のいない軍艦とは考えられない状況でもあり、結局バックランドは恐る恐る指揮権を引き継ぐ決意をします。その一つが乗組員全員に対する事情説明(任命書に代わるものです)であり、もう一つは・・・
「彼はやったぞ」ロバーツが言った。
「秘密指令書を読んだんですね?」スミスが言った。
「ああ!」
つまり、艦長不在のまま代理の副長が南方の基地まで軍艦を持ち込み、その基地司令官に後任の艦長選択を任せる、という方法がある一方で、艦長だけが見ている出港時の秘密命令書を読んで、本艦に与えられた任務を遂行するという選択もあるのです。上の記述は副長のバックランドが後者を選択したことを示しています。
結局、ソーヤー艦長は捕虜の反乱に会って殺されるのですが、ホーンブロアの活躍もあって戦列艦レナウンは無事その任務を全うすることになり、副長バックランドは指揮権の委譲に関して軍法会議にかけられることはありませんでした。しかし、任務遂行に対する褒賞としての昇進はなく、そのあたりはかなり微妙です。海軍という組織は反乱を恐れるので、いったん指揮権の委譲が行われたことに、本能的な嫌悪を持つのかもしれません。
指揮権委譲に関してもう一つ、有名な例があります。それが『ケイン号の反乱』です。ハーマン・ウオークの海洋小説で、第二次世界大戦での、老朽した小さな米国の掃海駆逐艦が舞台の現代の話です。詳しいことは省きますが、新任の艦長クイーグ少佐は、外見は立派ながら、小心者で規則にこだわり、少しでもストレスがかかると左手で2つの鉄球を転がすという奇癖があり、更にこれが増すと前後の見境がなくなる傾向があります。
台風に見舞われ、掃海駆逐艦ケインがあわや転覆かという状況でこの「指揮権の委譲」が起こります。南太平洋、フィリピンの東海上で台風に見舞われた駆逐艦隊は、南に進路を取っていたのですが、激しい北風でバラバラになり、ケインは今にも転覆しそうな状況に見舞われます。燃料も消費して軽くなったケインは北に進路を変え、風に舳先を立てて嵐を防いでいます。空いた燃料タンクに海水を入れて喫水を下げ、船体を安定させたい副長のマリックは艦長にそう進言するのですが、艦長のクイーグはそれを許さず、進路を艦隊のいる南に向けようとします。
「本艦は困難におちいっておらん」とクイーグは言った。「百八十度に変針じゃ」「現在のままにしておくんだぞ!」とマリック(副長)が間髪を入れずに(操舵手に)言った。「俺の言うとおりにするんだ!」と、副長が叫んだ。・・・スティーブ・マリックは大股に艦長の傍へつかつかと歩み寄って挙手の敬礼をした。「艦長、残念ながらあなたは病人です。海軍服務規程百八十四条により、一時わたしがあなたに代わって本艦の指揮を執ります」(新庄哲夫訳)
このように書くとどうも緊迫感が伝わりませんが、長い文章の中で駆逐艦ケインは本当に転覆しかねない状況だったことが示されています。事実、この後で転覆した僚艦の生存者を収容しています。読んでみると副長マリックの判断は誠に順当だったと思わせます。マリックのいう海軍服務規程184条は
下級士官ガ指揮官ヲ逮捕シ、或イハ患者名簿ニ栽セル事ニ依リ、指揮官ノ任務代行ノ必要ガ生ズル極メテ特殊且ツ異常ナ状況ノ発生ハ十分ニ考エラレル・・・(新庄哲夫訳)
と一応は認めているのですが、これは上級機関の命令の下に行うこととしています。もしそれが不可能な場合は、状況がすべて分かるように、まあ、証拠を残しておけといっているのです。
この事件の後、当然ながら軍法会議が開かれるのですが、だれも副長マリックの弁護を引き受けるものはありません。全ての弁護人候補がマリック副長は有罪だと思っているからです。唯一有能な弁護士グリーンウオルド大尉がその弁護を引き受けます。軍法会議でグリーンウオルドは、精神科医が異常ではないと証言したクイーグ艦長を徹底的に緊張状態に追い込み、その異常性を明らかにすることでマリック大尉の無罪を勝ち取るのです。しかし、無罪を勝ち取ったマリックは、その後上陸用舟艇隊の指揮官に転任になり、海軍での出世は終わります。指揮権の委譲が海軍という組織の中でいかに厭われているかの証左でもあります。
お断りしておきますが、『ケイン号の反乱』はあくまでもハーマン・ウォークの小説です。
アメリカ合衆国軍艦ケイン号という艦船は実在しない・・・さらに過去三十年間の記録を調べても、海軍服務規程第百八十四、五、六条に基づいて海上で艦長の交代が行われ、そのために軍法会議が開かれたという実例はない。(新庄輝夫訳)
と本人が作者ノートにも書いている通り、この小説はあくまでもウィリー・キースという若者が海軍の予備士官になり、最終的にはこの掃海駆逐艦ケインの艦長にまでなるという物語の中での話です。
もう1つ、非常に特殊な指揮権委譲の例があります。海洋小説ではなく、司馬遼太郎の『坂の上の雲』、いわば歴史小説での話です。明治37年(1904年)に日本は日露戦争の最中にあり、日本海軍はロシアの極東艦隊を旅順港に追い詰めてはいるのですが、ロシアはバルチック艦隊を編成して日本艦隊を撃滅するために、遥かなバルト海から日本まで長途の遠征に出ているのです。日本海軍としては何としてでも旅順港に逃げ込んだロシアの残存艦隊を沈めてから、バルチック艦隊を迎え撃つ準備をしなければなりません。
そのためには、旅順要塞を攻撃している日本陸軍に二〇三高地の要塞を落としてもらい、そこで観測しながら一望のもとに見える旅順艦隊を重砲で攻撃する必要があります。これに日本という国家の存立がかかっているのですが、担当している第三軍の司令官乃木大将は旧態依然の戦術で、要塞全体に総攻撃をかけては、いたずらに無防備の兵士を死なせています。援護の砲撃のない歩兵がいくら前進してもただ大砲や機関銃弾を浴びるだけです。1万人の兵士が1回の攻撃で1千人に減るという凄惨な状況が数か月も繰り返されていました。
しびれを切らしたのが、満州軍総司令部の総参謀長児玉源太郎大将です。何とか第三軍を説得して二〇三高地を陥落させたいと思うのですが、そこで問題になるのが指揮権の委譲です。第三軍の司令官である乃木大将を超えて指揮を取れば、軍隊が一番忌み嫌う指揮権の剥奪になります。「・・・できれば児玉は胸襟を開いて乃木と語り、むしろ乃木の方から——児玉たのむ。何日か、目鼻のつくまでわしの代行をしてくれ」と言わせることであった。(以下「 」内は『坂の上の雲』の文章)」というのが児玉大将の思惑でした。
しかし、もし乃木大将がそれを嫌だといえばことは重大です。「軍司令官というのは…天皇が親授する職なのである。天皇以外の何者もその指揮権を剥奪することのできないはずであった」ということですから、児玉大将は別に非常の措置を取っていました。それは満州軍総司令官大山巌元帥の命令書です。「児玉のポケットにあるのは、その命令書であった。ただし大山自身が第三軍の指揮を取るのではなく、『大山の代理としての児玉』に指揮をとらせようというものであった。」つまり、どうしても乃木大将が嫌だといえば総司令官の命令で一時的に児玉大将が指揮を取るということです。この強制的指揮権の委譲を使えば、乃木大将の面目は丸つぶれで、第三軍の士気も低下するでしょう。
二人だけでじっくり話をし、今の重砲の使用方法に問題があるということを認識させた児玉大将はこう切り出します。
『そこで』と児玉はいった。『おぬしのその第三軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか。』見事な言い方であった。言われている乃木自身さえ、この問題の重要さを少しも気づいていなかった。乃木はその性格からして、おそらく生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。『指揮権を借用するといっても、おぬしの書状が一枚ないとどうもならん。児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれんか』
まあ、随分ないい方ですが乃木大将はこれを快諾しました。こうして手に入れた指揮権を表面上は「大山閣下の指示により、乃木軍司令官の相談にあずかることになった。」と言っただけで、児玉大将は砲術の専門家を前にして大声で怒鳴ります。「『命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ。』」。つまり、離れた位置にあった二十八サンチ榴弾砲をすべて二〇三高地の麓に集めようというのです。この榴弾砲は本来海岸防備用のものでものすごい威力を持っています。これを集中的に使おうというのです。
二〇三高地の激戦を書くのはこの文章の目的ではありません。結果からいうと、この榴弾砲の集中砲撃によって敵の要塞を砕き、二〇三高地を占領するまでの時間は、わずか1時間20分でした。そして占拠した二〇三高地から観測して、旅順港内にいたロシア艦隊、戦艦5隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻、砲艦2隻、水雷砲艦2隻、水雷敷設艦1隻、輸送船1隻を数日のうちに撃沈あるいは撃破し、その上造船施設、市街地も砲撃し、日本海軍にバルチック艦隊を迎え撃つための準備時間を与えたのです。
念のため、私が二〇三高地に行ったときに撮った旅順港の様子と日本式28サンチ榴弾砲の写真をお見せします。
砲力を分散させ、援護なしで兵力の逐次投入という、最低の戦術を数か月も繰り返した旅順での戦いで、日本軍の死傷者は合計62,000名に達しています。二〇三高地だけの戦闘でも戦死者は6,200人になっているのです。口径28センチ、重さ10.7トンもの榴弾砲を多数集中させ、1個で217㎏もある弾丸を、実に2,300発も集中して使用した児玉大将の戦術は、見事というほかありませんが、それを非公式の指揮権委譲によって成し遂げ、例の大山元帥の命令書は使わなかった、という点に注目せざるをえません。
旅順港のロシア艦隊に対する砲撃が始まって間もなく、児玉大将は総司令部に戻ります。旅順要塞が陥落し、第三軍司令官乃木希典大将とロシア旅順要塞司令官アナートリイ・ステッセル中将との「水師営の会見」があったように、歴史の上で旅順での戦いの功労者は乃木大将であり、児玉大将の「こ」の字もありません。同時に、この異常ともいえる指揮権の委譲は全く表面に出ることはありませんでした。よき武人であり、戦時の極度の緊張のため、戦後すぐに亡くなった児玉源太郎大将のそれが望みでもあったのでしょう。
余談になるのですが、私の母方の祖父は軍人で、中頭(なかづ)少将と私たちは言っていたのですが、この二〇三高地の戦いに出ていました。小学校に入るか入らない頃の私に向かって、よくこんな話をしてくれました。「戦場でな、陽が暮れると、「担架! タンカ! 衛生兵はおらんか!』という声が毎日聞こえたもんだよ。」祖父にとって死傷者62,000人というのは決して遠い話ではなかったのです。
2021.8.20
雷のような音が続く中でラミジはしだいに意識を取り戻し始めていた・・・同時に嗅覚も戻ってきた。硝煙が鼻をつくとおもったとき、『ミスター・ラミジ、ミスター・ラミジ!』と自分を呼ぶ声に気づいた・・・『なんだ?・・・どうしたんだ?』『とんでもないことになりました。みんな死にました・・・』『落ち着け、誰がお前をここによこしたんだ?』『掌帆長(ボースン)です。今ではあなたがこの艦の指揮官だといっています』
(山形欣哉/田中航訳)
これは『ラミジ艦長物語』の第1巻『イタリアの海』の冒頭の場面です。1796年9月、ラミジはこのとき英国海軍の28門フリゲート艦シベラの三等海尉でした。つまり序列からいったら艦長、副長、2等海尉の次、という席次です。同じフリゲート艦でも一番小さな6等級艦の一番の下っ端海尉という身分で、普通なら当直に立ち、戦闘時は砲列を指揮するという、まあ気楽な身分でもあります。
しかしこの時、フリゲート艦シベラは単艦でフランスの戦列艦と交戦し、当然のことながら沈没寸前にまで砲撃で痛めつけられていたのです。上級士官がすべて戦死したとなれば、下っ端といえども士官ですから、そこに指揮権が移ります。ラミジはこの時、艦長室にあった命令書を読み、それを実行に移したのです。ベテランの准士官がいる中で、経験もあまりない若い下級士官が指揮を取る、というのは彼が軍隊の「指揮系統に組み込まれている」からです。
私が旧制の中学生だったころ、戦時中ですから海軍経理学校の農場に接収された、現在の我孫子ゴルフ場に学徒動員され、あげくの果てに疥癬(かいせん)という病気にかかり、海軍病院で治療を受けたことがありました。15歳の少年でしたから、看護婦さん(当時は看護師ではなかったのです)が親切に看護にあたってくれました。進路の選択はほとんどが軍隊に限られていた若者に、担当の看護婦さんはこういったのです。「あなた、海軍に入るなら経理学校ではダメよ。ゼッタイ兵学校に入りなさいね!」
つまり、兵科将校でないと指揮系統に入れない、ということをこの看護婦さんがいったのです。当時の海軍は将官、士官、下士官、兵という縦の「階級」と共に、「将校」という横の制度がありました。基本的に兵科の士官が「将校」で、その他の主計科、軍医科などは「将校相当官」と区別されていました。ですから、戦闘時に多くの士官が戦死し、例えば海軍主計中佐と海軍少尉が生き残ったとしましょう。この時、その軍艦の指揮をとるのは海軍少尉の方なのです。なぜならば、少尉の方が指揮系統に入っているからです。海軍兵学校は「兵隊の学校」という意味ではありません。「海軍兵科学校」という意味で、そのために兵学校の生徒は「将校生徒」と呼ばれました。
それはともかく、指揮系統について説明した小説があります。海洋小説ではなく、サイエンス・フィクション(SF)で、もう古典に属する「宇宙の戦士」という、ロバートAハインラインの著作です。彼が軍国主義者になったのではないかと、物議をかもしながらもヒューゴー賞を獲得した作品です。機動歩兵という動力スーツを着た兵隊が、地球外生命と戦うという物語で、主人公のジョリアン・リコが士官学校の卒業課程で戦いに赴く前に、同期生と校長のニールセン大佐に面会した時の話です。
『諸君は三等少尉に(臨時に)任官されることになっている・・・だが給与はもとのままであり、肩書は引きつづいてミスターと呼ばれる。軍服でただひとつ変わることは、肩章が候補生のそれよりもまだ小さくなることだけだ。諸君が士官となるに適しているかどうかは、いまだに決定されておらんので、教育は続けられる。』大佐は微笑を浮かべた。『では、なぜ三等少尉と呼ぶのか?』・・・『ミスター・バード?』『ええ…われわれを命令系統の列に置くためであります。大佐殿。』『その通り!』(矢野徹訳以下この項同じ)
ニールセン大佐は縦にピラミッド型に広がった編成表を見せます。この図の大佐の名前の脇に水平の線で結ばれた先が「司令官補佐、ミス・ケンドリック」となっています。大佐は候補生についていろいろ彼女に質問し、即答を得ます。そして「もしミス・ケンドリックがいなかったら、ここを動かしてゆくわしの仕事は多大の支障をきたしてしまうだろう。」と説明するのです。しかし司令官が突然死んでしまったら、ミス・ケンドリックは司令官の仕事を引き継ぐことはなく、全く何もしないのだ、なぜならば彼女は有能でも、命令系統に入っていないからだ、と大佐は強調するのです。
『命令系統とは、単なる飾り文句ではないのだ。・・・もしわたしがきみに、“候補生”として戦闘するように命令したとする。きみのできる最大のことは、きみ以外のだれかの命令を次に渡すことぐらいだ・・・』
なので、もし戦場で候補生が命令したらそれは軍制の違反となるのだと説明します。指揮系統、命令系統といってもいいのですが、軍制でそれが絶対に必要である理由は、複数の指揮官が同時に命令を出す危険を避けること、あるいはいつでも命令を出す指揮官がいること、にあります。命を懸けた戦場で、どちらの命令を聞けばいいのかわからない、あるいは命令を出す指揮官がいない、という状況が戦力の最大の危機であるのは間違いありません。
もっとも、絶対的な指揮権、まあ命令権といってもいいのですが、これにも欠陥があります。任官したばかりの経験のない若い士官が、戦闘中に事情もよく分からずに命令したら、迷惑をするのは兵士の方です。長い歴史を持つ軍隊は、そのような危険をよく承知しています。いいかえれば、経験の少ない士官をどのように教育するかという問題になるのですが、この「宇宙の戦士」にもそれがあります。主人公ジュリアン・リコは“臨時の三等少尉”として戦場に臨むのですが、大隊指揮官で、リコの評価官でもあるブラックストーン大尉がリコを教育する場面が出てきます。
輸送宇宙艦内での任務に精励して疲れ果てたリコを叱り、戦場に臨むには万全の体調が必要だと、不要な(つまり生きていれば帰りにできる)作業をおっぽりださせて、まず睡眠をとらせるのです。その上で、彼はリコを自分が指揮するD中隊(ブラッキーのならず者隊)の第1小隊の小隊長に任命します。同時に彼の下に艦隊軍曹をつけます。艦隊軍曹というのは最優秀の下士官で大隊全体の参謀といった役割です。それを(中隊を飛び越えて)2階級も下の小隊軍曹に任命したのは、もしリコがだめならば、実質的にその軍曹に小隊を指揮させるという思惑があるからです。
この小説の面白いところは、機動歩兵が着ている動力スーツにさまざまな通信回路があり、指揮官には軍曹だけと話すことのできる回路があることです。ブラックストーン大尉がいうには、ベテランの軍曹に相談しないで独断でことを運ぶな、軍曹は相談されることに慣れている。”ただし、”とここが肝要なところですが、”決定は自分でやるんだ“と強調します。指揮官には命令権があります。相談、つまり経験を踏まえた情報や提案を吸収した上で、どう決定するかは指揮官の判断で、これができなければ指揮官としての資格がない、ということになります。若い士官はこうして経験を積んでゆくのだと、この小説は示唆しています。
指揮系統の問題で非常に特殊な例が「炎の駆逐艦」に出てきます。これはフィリップ・マカッチャンの書いた「キャメロンの海戦シリーズ」の第1巻ですが、主人公のドナルド・キャメロンはトロール船の船主の息子で“士官候補生に推薦される”三等水兵として駆逐艦カマーゼンに乗り組んでいます。時代は第2次世界大戦の北大西洋、ドイツの潜水艦Uボートが活躍していたころの話です。船団護衛でUボートを探知したカマーゼンは全速力で戦闘に臨みますが、間近の商船が魚雷を受けて爆発し、その破片が艦橋を襲って艦長ヒューソン少佐ははやばやと戦死してしまいます。
指揮系統に従い、副長のシーモア大尉がそのあとを継ぐのですが、その直前にカマーゼンは艦首に魚雷を喰って大破し、前進することができなくなります。詳しいことは省きますが駆逐艦カマーゼンは戦闘と貨物船との接触もあって、基地に帰投することすらままならず、艦体自体はもう沈没寸前といった状態です。生き残った士官は艦長職を継いだシーモアと機関長のマシューズ機関大尉だけです。
機関長のマシューズは心の中でもう戦闘は無理で、機会があればドイツに降伏するつもりでいます。そのためには指揮権を持たなければなりません。そこで水雷兵曹に疲労の極に達したシーモア艦長はもう無理ではないかと相談を持ち掛けます。
「海軍本部に関しては・・・あまり自信はないのだが・・・この私が変わるというのはどうだろうか?」「艦橋の当直につかれる、という意味でしょうか?」「ちがう、ちがう。必要が起きた場合、艦の指揮を——ということだ・・・(佐和誠訳、以下この関連項同じ)
この相談にベテランの水雷兵曹は、あなたに艦の指揮権は認められていない、と答えるのですが、マシューズは兵曹の支持を求め、あっさりそれを無視されます。その後沈没寸前のカマーゼンにUボートが接近し、砲戦でさらにカマーゼンは艦橋を破壊され、シーモア艦長も戦死します。乗組員は接舷して敵が乗り込んでくることを予期して艦内にひっそりと待機しているのですが、生き残っている兵科最高の階級はファロウ一等水兵だけです。
…ファロウは腹をくくった。ここはひとつ、あえて火中の栗をひろってやろうとするかい。彼は自分の置かれる立場に自信はなかった。ただ士官室甲板を去る直前の艦長の言葉をおぼえていたし、その言葉のふくむ意味についても忘れてはいなかった。指揮権をいきなりずばっと押しつけられたにもかかわらず、ミスター・シーモアは立派にことをやりのけている。彼をしかるべく支え、マシューズをこけにする。それは一にかかって乗組員たちの出方次第だった・・・なんの権限もない機関室士官を、正面からつついてやろうという魂胆だ。
艦長の戦死を知らないファロウはそう決心します。そして敵が乗り込んできたときに彼は全員を甲板に上げて戦闘を命ずるのです。
マシューズ大尉の怒りに燃える視線をとらえ、ファロウはいった。『自分の記憶では、大尉、艦長は、ここでの先任水兵として指揮をとるようにという意味のことを言われました。そこで、自分が指揮をとらせていただきます…』
こうして機関大尉という士官を押しのけて兵科の一等水兵が駆逐艦カマーゼンの戦闘指揮をとるという状況が成り立つのです。艦長の戦死した艦橋にあって、キャメロンは手榴弾を仲間とともにUボートの司令塔のハッチに投げ込み、あわてたUボートが離れて爆沈するという大手柄をたて、カマーゼンもその後、巡洋艦に曳航されて基地に帰投します。これは士官のみならず、下士官や一般水兵であっても、兵科の指揮系統の厳密さを十分に知って、それを実行したという物語です。
もう1つ、指揮系統が上からの命令で途絶えるという、まさに異常ともいえる例があります。これは小説ではあるのですが実際のことで、前回にも引用した司馬遼太郎の「坂の上の雲」のなかでの話です。明治38年(1905年)5月22日、日本とロシアの戦争で、遠い日本を目指すロシアのバルチック艦隊は、とうとう東シナ海に達していました。
その23日、第二戦艦戦隊司令官フェリケルザム少将が病死したのである。フェリケルザム少将は腕のいい船乗りであると同時に部下の信望もあったが、本国を出発するときから健康が思わしくなく・・・ずっと病床に伏したきりであった(司馬遼太郎、以下この関連項同じ)。
バルチック艦隊には戦艦戦隊が3つありました。第一戦隊は艦隊司令長官ロジェストヴェンスキーが自ら統率し、第二戦隊はフェリケルザム少将、第三戦隊はネボガトフ少将が司令官でした。その第二戦艦戦隊司令官が死んだのです。
提督は神に召されたり」と第二戦隊旗艦オスラービヤが暗号信号を掲げました。ロジェストヴェンスキーはすぐさま「その死を秘すべし」と命令したのです。「ロジェストヴェンスキーは海戦をひかえて指揮の沮喪することをおそれたのだが、しかし第二戦艦戦隊の臨時司令官を選ぶこともかれはしなかった。オスラービア以下の第二戦艦戦隊は死骸の司令官を奉じて戦場にむかわざるをえなかった。
あれほど厳しい指揮系統を中心とする軍隊に指揮者がいない、それも最高指揮官によってなされた、というのは本当に異常なことです。
事ここにいたっては、ロシア皇帝はロジェストヴェンスキー中将を司令長官に選んだことを後悔すべきであった・・・指揮者のいない軍隊というものを思いついた史上唯一の人物がロジェストヴェンスキーであった。
司馬遼太郎は本の中でこのことについていろいろ論考しています。
ロジェストヴェンスキーは自分の戦死を考えていなかったのだろうか、もし彼が戦死すれば、第三戦艦戦隊司令官ネボガトフは最後までフェリケルザムの死を知らなかったので、バルチック艦隊は文字通り指揮官のいない艦隊となっていたはずです。推定としてですが、司馬遼太郎はロジェストヴェンスキーが新鋭で高速の戦艦数隻だけを率いてまっすぐ日本海の奥にあるウラジオストクに逃げ込もうとしたのではないかと疑っています。
その傍証として、「ロジェストヴェンスキーの匿名幕僚の記録では、『司令官会議もなく、艦長会議もなかった』と執拗なまでに書いている。司令長官たる自分の方針や企図を麾下の各司令官や艦長に十分服膺せしめておいてはじめて艦隊が一心同体となって動くのだが、ロジェストヴェンスキーが水兵でさえも知っているはずの軍隊統率のこの初歩を履行しなかったのは、『自分のみが天才だと信じ、他の者はすべて愚人だという自己肥大的性格』・・・にこの重大問題を理由づけることは単純すぎるように思える。」つまり足の速い戦艦群だけで(他を顧みず)ウラジオストクに逃げ込もうという魂胆がなければ、こんな行動を予めとらなかっただろうというのです。
この問題をもう少し掘り下げると面白いと思うのですが、ここではそれを取り上げることはしません。良い、悪いではなくて、そもそも軍隊組織というものは指揮系統が確立していなければ成り立たないのです。小説という形を借りて、それがいかに維持されてきたか、またそれがなければどうなるか、という点をここでは取り上げています。
日本海海戦の結果は、ご承知のようにロシアのバルチック艦隊の壊滅、文字通りの壊滅で終わっています。早々の海戦で司令長官ロジェストヴェンスキーは負傷、旗艦スワロフも沈没し、駆逐艦に収容されたロジェストヴェンスキーは後に日本の駆逐艦に拿捕されて日本軍の捕虜となります。海戦の最後に第三戦艦戦隊司令官ネボガトフ少将は、乗組員の生命を守るために砲火を交えずに降伏します。こうして第二戦艦戦隊の指揮官がいないための影響は、壊滅的な敗戦によって目立つことはなく、負傷が癒えて帰国したロジェストヴェンスキーがこの点で責められることはなかったようです。
しかし、死者の司令官旗を掲げたまま戦闘に入った第二戦艦戦隊旗艦オスラービヤの、特に、権限のない艦長が、どのような気持ちで戦隊を指揮して戦ったのか、私には想像もつかないのです。
強大な権限を持つ指揮官には、それに伴う責任があるのは当然です。第16回でお話した艦長の任命書の中に、「・・・危機に際しては、適切にこれに対応し、貴官及び部下の一人たりとも、過誤を冒すべからず・・・」という文言のあることをお忘れではないと思いますが、要するに問題を起こせば責任をとらせるぞ、という宣言です。これは艦長や士官に限らずより権限の多い司令官クラスにも当然適用されます。
ホーンブロア・シリーズの第7巻「勇者の帰還」に「・・・そうなれば、サザランド号喪失の責任を問われ、海軍勤務十八年目で、軍法会議の裁きをうけなければならない。軍法会議は、たぶん、彼が敵前で全力を尽くさなかったとして有罪の判決を下すだろうし、それに対する罰はただ一つ、死刑だ — 陸海軍条例のなかで、あの条項だけは、最後に罰を軽減する言葉『罪一等を減じ—』というものがない。バイングは十五年前あの条項のもとに銃殺された。(高橋泰邦訳)」というくだりがあります。
ホーンブロアは小説の中の人物ですが、このバイングというのは実在の人物で、John Byingという海軍中将です。普通はジョン・ビング提督といわれているようですが、ミノルカ島の海戦での責任を問われたのです。ミノルカ島は地中海西部にあるスペイン領ですが、1708年に英国がそれを占領して領有していました。しかし1756年、いわゆる七年戦争が始まるとフランスがこの島を攻撃します。
英国政府はこの島のマオン港にあるセント・フィリップ砦の救援をビングに命じるのですが、彼の艦隊は老朽し乗組員の不足した戦列艦10隻で、おまけに出航命令が5日も遅れるという決定的に不利な態勢でした。ビングはいろいろ抵抗したのですが、それは叶わず、5月8日にジブラルタルを出航、向かうミノルカ島にはすでにフランス軍1万5千人が上陸していました。
5月19日、ミノルカ西方沖でビングはフランス艦隊と遭遇します。ビングの艦隊は風上に占位したのですが、浅い角度でフランス艦隊に並航したので、全艦が射程距離に入るまえに先頭艦デファイアンスは集中攻撃で損害を被り、戦列を離脱します。ビングの旗艦ラミリーズの艦長は戦列を崩してもフランス戦隊の中央部を攻撃することを進言するのですが、そういった行動でトマス・マシューズ提督が軍法会議にかけられたことを知っていたビングはそれを許しません。結局フランス戦隊は同規模の英国戦隊から無傷で逃走したのです。
これが軍法会議にかけられる原因となったのですが、本国からの連絡でビングは解任、拘束されてしまいます。砦はとうとうフランスに降伏し、全将兵は英国に送り返されます。本国に送り返されたビングは「戦時服務規程違反」の罪で軍法会議にかけられます。この会議で、ビングは「怯懦(きょうだ)」と「不忠実」、つまり臆病な行動や国家に忠実でない行動はなかったと無罪になるのですが、「最善を尽くさなかった」という点で有罪となります。つまり、命をかけてもフランス艦隊を追撃すべきだったと判断されたのです。
戦時服務規定に違反して有罪となった場合、それを緩くする条項はなく、自動的に死刑となります。周辺の海軍士官たちはビングに同情的になり、彼を救う唯一の方法である「国王の赦免」を願うのですが国王ジョージ2世はそれを認めず、1757年3月14日、戦列艦モナークの艦上でビング提督は銃殺刑に処されたのです。「バイングは十五年前あの条項のもとに銃殺された。」という記述はこのことを指しています。
死刑の執行がどのように行われるのか、「ラミジ艦長物語」シリーズの第6巻「謎の五行詩」に次のような記述があります。「・・アロガント号の後部マスト(後檣)頂部に黄旗が掲げられ号砲がはなたれる。刑の執行を知らせるのだ。ヤードの先端近くの滑車ロープが一本とおされる。ロープの先端は輪になっており、死刑囚が立っている所へ垂直に垂らされる。死刑執行人は、結び目が首にあたって痛まないように、こまかく気をくばる・・・ロープは滑車から折れて甲板にくだり、メインマスト(主檣)のかたわらに至る。二十人ほどの水兵が、艦尾に向いてロープにとりつく。
死刑囚が立っているすぐ下の甲板では、空砲がこめられる。やがて、準備完了の報告がアロガント号の艦長に届く。首の回りの輪がしぼられ、頭巾も締められる。水兵がロープの片方の端に列をつくる。艦長が命令すると、砲手は砲の引き鉄索を慎重に引き・・・強力な火薬二ポンドが閃光と煙と轟音となって噴出する。同時に誰かの合図で、ロープについている水兵たちが一斉に艦尾のほうへ走る。その瞬間、死刑囚のからだは甲板から何フィートも高く吊り上げられ、すべてが終わる。(小牧大介訳)」
この死刑囚を吊るす滑車はフォアマスト(前檣)のメインヤードに取りつけられます。通常は左舷側が使われ、右舷側は士官専用です。ですから提督といえども死刑になれば右舷側に吊るされるのですが、前記のビング提督は抗議して銃殺刑になったといわれています。日本式にいえば打首を切腹に代えてその面目を保ったというところでしょうか。
それはともかく、軍法会議とは何かというと「軍人に対して司法権を行使する軍隊内の機関」をいいます。一般の裁判と違うのは、法曹である法務官はいるのですが、裁判長も判士も現役の軍人が務めます。なぜかというと、軍法会議の主たる目的は「軍紀の維持」にあり、必ずしも原因の究明が主たる目的ではないからです。また軍事上の機密に触れることもあるので、どうしても軍という組織内での裁判になってしまうのでしょう。
細かいことはともかく、ホーンブロアの時代、軍法会議には判士として少なくとも5名の「艦長」が必要でした。戦列艦の大キャビンで、窓を背にして中央に裁判長、左右に判士がいならび、それに相対して被告が座ります。裁判長の前には被告の剣が横に置かれた机もあります。法務官は尋問や証人とのやり取りをすべて筆記して記録に残さなければなりません。
ホーンブロアは、戦列艦サザランドを激戦の後に失い、フランスの捕虜となって内陸まで運ばれるのですが、うまく脱出してフランスの貴族に匿われ、その後フランスに拿捕されていた英国のカッター型ブリッグ艦ウイッチ・オブ・エンダーを取り戻して艦隊に復帰したのです。その戦歴は英国内でも広く知られ、称賛されているので軍法会議に心配はないと思いながらもやっぱり心穏やかではありません。
・・・軍法会議のことは何も心配ないのだと、ホーンブロアは次の二十四時間の間に、たびたび自分に言い聞かせはしたものの、やはりそれを待つのは神経のつかれることだった・・・ホーンブロアは審理の細々したことをあとであまりよく憶えていなかった・・・そして証言も証拠調べもすべて終わり、軍法会議が判決の審議中、カレンダーといっしょに待っている間はさらにひどかった。そのときこそ、ホーンブロアは本当の恐怖というものを知った・・・法廷にはいる彼の心臓は激しく動悸を打っており、顔青ざめているのが自分でもわかった・・・
・・・青と金の軍服に身を固めた判士たちは、キャビン全体をおぼろにする靄に包まれているので、ホーンブロアの目には何も見えず、ただ中央の一カ所だけが目に映っている—議長席の前のテーブル中央で、そこだけきれいにものが片付けられ、そこに、彼の剣、愛国者基金から贈られた百ギニの剣が置いてある。ホーンブロアに見えるのはそれだけ、しかも剣は何の支えもなく、そこの宙に浮いているように思われた。そして柄(つか)の方がこちらへ向いている。無罪だ。(高橋泰邦訳)
そう、剣は審理中、被告から見て横向きに置かれています。審理が終わり、判決の際に被告の帯剣は無罪なら被告に向けて柄の方を、有罪なら切っ先を向けるのです。軍法会議ならではの当時の習慣です。軍人を象徴する帯剣は、被告として拘束されると同時に取り上げられます。裁判の結果、無罪ならその剣を所持するふさわしい者として、その柄の方を示し、有罪ならその剣を持つにふさわしからぬ者として、その切っ先に刺されることを象徴しているのでしょう。赫赫(かっかく)たる戦果を挙げて国中の歓迎を受けて帰国し、周りから何の心配もいらないと励まされたたホーンブロアでさえ、軍法会議に際して「本当の恐怖というものを知った」のですから、普通の軍法会議の被告がいかに怯えるか、容易に想像できるというものです。
その原因の一つが、判士が法曹ではなく現役の軍人であることにあります。軍法会議の目的が犯罪の原因究明ではなく、軍規の維持にあるのですから、例えば「最善を尽くさなかった」という判断が「本当に敵を追いかけるだけの状態にあったのかなかったのか」を究明するのではなく、「戦術的に追いかける必要があったのではないか」を判断することになるのです。当事者でない軍人の判士が戦術的に判断すれば「艦隊の指揮官として、どのように損害を受けようとも、追撃を命令すべきあり、それをしなかったのは最善を尽くさなかったと判断せざるを得ない」と結論しがちになるでしょう。
まして、悪意をもって被告をおとしめようとすれば、いわば身内の裁判だけにそれが容易になります。その例が先に書いたラミジ艦長物語シリーズの「謎の五行詩」に出てきます。ラミジの父親ジョン・ラミジは第10代ブレイジー伯爵で、海軍の提督であり新戦術の提唱者でもありました。旧守派のゴダート提督はジョンの軍法会議で判士を務め、彼を罷免していまいます。そして息子のニコラス・ラミジを何とかおとしめようと画策するのです。
ブリッグ艦トライトンの艦長(コマンダー)であるニコラス・ラミジ海尉は、ジャマイカ島へ向かう船団の護衛を命じられます。船団にはトパーズという名の奇妙な船がいて、ラミジはその船客がおそらく名のあるフランスの亡命者だろうと思っています。護衛の途中、船団に合流を申し出たピーコックという船が実はフランスの私掠船で、ラミジがこれは怪しいと責任者であるゴダート提督に進言するのですが、一笑に付されてしまいます。果たしてピーコックは真夜中にトパーズを襲い、それを奪おうとするのですがいち早く気付いたラミジに阻止されます。船団はその後すぐ大嵐に見舞われ、バラバラとなりトパーズも難破して乗客も遭難したとみなされたのです。
リア・アドミラル(海軍少将)であるゴダートは、嵐で散々やられた乗艦の戦列艦ライオンが途中で出会ったフリゲート艦に曳航されてジャマイカ島に到着すると、すぐ当地の司令長官であるサー・ピルチャー・スキナー提督(海軍中将)に報告書を送り、私掠船の襲撃を阻止しなかった罪でラミジを軍法会議に召喚するよう要請、スキナー提督はゴダートの同類ですから軍法会議の開催を命令するのです。ラミジは拘束され、戦列艦ライオンに移されて軍法会議の始まるのを待ちますが、その間にいろいろな対策を考えます。
軍法会議は戦列艦アロガントで行われました。この戦列艦の艦長ネピアが議長で、6人の艦長が判士を務めます。ゴダート提督は「告訴人」として法廷に出ているのです。告訴状は、簡単にいうと私掠船ピーコックがトパーズを襲った時にラミジがそれを阻止できなかったから、戦時条例違反(死刑にすべき)だという内容です。確たる証拠はないのですが、トパーズに乗っていた要人は嵐で遭難したので死人に口なしという前提に立っています。ゴダートの乗艦である戦列艦ライオンの艦長クロウチャーは、告訴人側の証人として事実と違う証言を繰り返します。
実はトパーズに乗っていた要人とはフランス亡命政府を指導するブルターニュ公爵とシャムベリー伯爵というとびっきりの重要人物、それとトパーズの船長ヨークで、ラミジの活躍で生きていて密かにこの港に停泊していたのです。そしてラミジの証人として出席しようと法廷に申し出ます。それを聞いたゴダートは色を失って告訴を取り消すと宣告します。それではラミジは無罪にはなっても、不名誉な証言を消すことができません。
告訴を取り消すかどうか、法廷が決めることになるのですが、この辺りが軍法会議の山場で、「『当法廷は、告訴人による、ラミジ将校に対する告訴取下げ申し立てを検討し、あわせて、被告人に答弁の機会を与えるべきだとする被告人の申し立てを検討した。』(小牧大介訳、以下この項同じ)」そして議長はラミジに不利となる種々の様子を述べたあとで「・・・声の調子を全く変えずに、ネピアはまだ続けている。『慎重なる検討の結果、当法廷は告訴人の申し立てを却下するものである。査問は継続される。では、被告人、次の証人を呼びなさい。』」
こうして、最終的に告訴取消は否定され、審理が継続されてラミジの業績がフランスの要人3人によって証言されるのです。なぜ公正な法廷指揮が難しいかというと、裁判が終われば議長や判士たちは艦長、告訴人は提督、しかもこの艦隊の副司令官という身分であるからです。その意味で、この議長や判士たちはかなりのリスクを背負って判断したといえるでしょう。まあ、これは小説ですから最終的にはラミジに有利な展開になるのですが、軍法会議の議長である戦列艦アロガントの艦長ネピアが公正な法廷指揮を行った、というのがこの軍法会議のハイライトでもあります。
もう1つ、軍規の維持という軍法会議の目的が明瞭に示された事例があります。前にも紹介した司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくるロシア、バルチック艦隊の第3戦艦戦隊司令官ネボガトフ少将の話です。明治38(1905)年5月27日、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本の連合艦隊は、砲戦によってロシアの艦隊に壊滅的な打撃を与えます。しかし、ロシアの第3戦艦戦隊は「浮かぶアイロン」といわれた老朽艦の集まりのために、当初の海戦では日本側に無視されたために損害を負わず、無燈航海の訓練をしていたこの艦隊は、夜陰に乗じて戦場を脱出、ウラジオストックを目指します。
ネボガトフの艦隊は、大損害を受けて途中から加わった新型戦艦「アリョール」を含めてわずか5隻、翌5月28日は快晴のためもあって、日本海軍の索敵網にかかって午前8時には発見されてしまいます。旗艦「ニコライ一世」の前に現れたのは、旗艦三笠を含め全部の日本艦隊でした。
『三笠』は依然として先頭にあった・・・ロシア側にすれば昨日飽きあきするほど繰り返し見せつけられた東郷の第一戦隊の陣容であり、おどろいたことにどの艦の外観も変化しておらずいまから観艦式にでもでかけるようにいきいきと航進してきた・・・(いったい、あれだけ奮戦したきのうの戦いは、あれは何だったろうか)とスミルノフ大佐(旗艦艦長)はおもった。(司馬遼太郎、以下同じ)
このネボガトフ艦隊を囲むようにしてあらわれた日本側の陣容は水雷艇をのぞいて二十七隻であった・・・ロシア側の五隻の軍艦には、なお生きている乗員が合わせて二千五百人いた。かれらはまるで屠殺場に送られた家畜のようなものであった。」という状況のもとで、スミルノフ大佐は司令官ネボガトフに降伏を進言します。もしここで降伏すれば、ネボガトフは間違いなく最高指揮官として死刑になります。それでもネボガトフは「・・・勝ち目のない戦闘で二千五百人の生命を失わしめるのは無用のことだ、という結論に達していたらしく、ひどくおだやかの物言いで『降伏しよう』といった。
ついでながら、ネボガトフとよく似た処置をとった艦隊指揮官としては、日清戦争の時の北洋艦隊の司令長官丁汝昌(ていじょしょう)がある。かれは・・・万策尽きて降伏し、包囲していた日本の連合艦隊司令長官伊東祐亨(すけゆき)に艦船を差し出した。その理由は部下の生命を救うためということで、ネボガトフと同じであった。ただ丁汝昌はそれを決定するとともに毒をあおいで死んだという違いだけがある・・・清国末期の北京政府でさえ丁汝昌のこの行動を許さず、その葬儀を営ましめなかったほどである。
常識的にいえば、ロジェストヴェンスキーは、長い航海中、麾下(きか)の艦隊の艦隊運動という基本訓練を行わず、そのために合戦に際して単縦陣をつくれず、病死した第2戦艦戦隊の指揮官を任命せず、無燈航海の訓練をしなかったために、夜戦で日本の水雷艇の攻撃を受けやすくし、負傷の後で装甲の多い巡洋艦でなく、お気に入りの艦長がいる駆逐艦に移乗し、そのために日本海軍の捕虜となる、と、まあこれだけ並べても艦隊の最高指揮官として全くその資格を欠くといえるでしょう。
戦闘結果からいうと、ロシア艦隊は21隻が撃沈または自沈、6隻が日本側に拿捕され、6隻が外国で抑留されています。全艦艇は38隻でしたから損害は87%に上り、戦闘艦は全部失い、残ったものは戦闘できる状態ではありません。一方日本側の損害は沈没した水雷艇3隻で、被害はあるものの艦艇の損失はほとんどないといってもいいでしょう。日本の戦死者は117名で戦傷者583名、ロシアの戦死者は約5,000名、捕虜が6,106名ですからこの結果からしてもロジェストヴェンスキーの責任は重いといえましょう。
結果からいうと、ネボガトフは戦後、クロンシュタット軍港において軍法会議にかけられ、死刑を宣告された。しかも軍法会議以前に軍籍をむしりとられていた。皇帝ニコライ二世は、力尽きて捕虜になったというかたちのロジェストヴェンスキーに対しては寛大であったが、ネボガトフに対しては峻烈で、皇帝みずからが海軍法廷に臨んだほどである。もっとものちに死刑が許され、十年の要塞禁固の刑に処せられ、各艦長も禁固刑に処せられた。
法廷ではネボガトフはおとなしくなかった。彼はロシア海軍の腐敗を衝き、勝つための真剣な準備や注意がほとんどなされておらず、艦隊は棄てられたも同然であった、と主張した。
ロシアの法廷は、まあ大方の海軍でも同様だと思うのですが、一戦も交えずに降伏した、という一点で軍法違反と判断したといっていいでしょう。あれだけの過誤、というよりも無能ぶりを発揮したロジェストヴェンスキーが軍法会議の対象にならなかったのが不思議ですが、そのあたりが軍法会議の限界ということでしょうか。
2022.5.17.