福田正彦 エッセイ集-2

逆さまの地図

    ハンセン性症候群の解明  B-01  
    逆さまの地図  B-02  
    スペインの強盗  B-03  
    カナダの中の英国とフランス  B-04  
    ソ連の潜水艇  B-05  
    ユーモアとウイット  B-06  
    信濃丸残映  B-07  
    シャフトトンネル  B-08  
    コロラドの材料屋  B-09  
    アメリカ・人さまざま  B-10  
    海辺の家  B-11  
    セイレムの模型ギャラリー  B-12  
    ワシントン・ネイビーヤード  B-13  
    ジャギュアー  B-14  
    海王丸パーク  B-15  

 



ハンセン性症候群の解明

1.病名
  ハンセン性自己披瀝症並びにハンセン性教育意欲高進症
  (別名:自慢したがり病及び教えたがり病)

2.症状


初期症状
自分の作品に対して異常な関心を持ち、時としてそれがこの世で最高であるという妄想にかかる。しかし、展示会等でより高度な作品に会うと、たちまち意気消沈し、その作品を押入に仕舞ってしまうか、極端な場合は破壊してしまう。

進行状況
初期症状で、他人の作品に出会わなければそれが継続するが、多くの場合症状の末期に入った人と出会うことになる。この病気が進行すると、教育意欲高進症が強くでるので、初期症状は末期の人によって教育され、中期に入ることになる。

中期症状
この時期は、症状が安定する。つまり、自慢するほどの作品もなく、また教わる方の立場に立つので、症状は強くでてこない。しかし、この時期は製作に熱中 するか、あきらめるかの境目となる。後者の場合は病気の集団から離れることが多いので、やがて快癒する。しかし、多くの患者は作品の質の向上につとめるの で、症状はだんだん昂進し、まちがいなく末期症状に入る。

末期症状
一定の技術を身につけ、文献によって他人の作品の間違い を発見できるようになると、末期症状になる。発現の程度は患者によって違うが、多くの場合他人の作品をあげつらうことはなく、自らの作品を見せびらかす。 すると他の患者からその製作方法を聞かれるので、教えたがり症状が発現されることになる。
末期症状の特徴は、患者同士で群れたがり、話を始めると時間の観念が消滅する。また作品のみならず、ことあるごとに遊びにゆく習性が身につく。専門化が進み、患者同士にしか役にたたない作品の製作に熱中するのもこの病気の特徴である。

またこの専門分野に他の患者を勧誘する二次症状がみられる。
現在のところ、この病気の治療法は発見されておらず、快癒の見込みはまったくない。


3.遺伝的要素
この病気は遺伝しない。患者の家族に同じような症状が発生した例はまずみられない。ただし、ごくまれに感染患者が出ることもありうる。

4.伝染性
一般に伝染性はないといえる。しかし、特殊の人間に対しては強い伝染性があり、このような人間は、周囲でどのように防護してもこの症状を示す。その原因 はよくわかっていないが、特殊なDNAを持つのではないかといわれている。患者の分析によると、次項の前駆症状を示すことが多く、このような前駆症状を示 す人には十分注意する必要がある。

5.前駆症状
前駆症状は幼年期から現れる。船や飛行機に興味を持ち、文献を漁ると同時にプ ラモデルといえども製作してみようという意欲を持つ。全般にものを作ることに異常な興味を持つことがこの病気の前駆症状といえる。また他のことはともか く、ものを作るときは極めて根気がよくなるのはこの病気にかかり易い性質といえる。

6.発現範囲
一般に範囲の限定は強くな い。しかし、男性に対して発現が多く、女性はかなり対抗性があるとされているが、特定の女性には強く現れるので注意が必要である。この病気の発現は、環境、教育程度、国籍等に対しての選択性はみられないが、有り余るほどの金持ち、あるいは極端な貧困者に対して発生した例はない。

 

 


                          1998.8.


逆さまの地図

今年の2月、会議があってメルボルンへ出掛けたときのこと、へんな地図を手に入れた。とはいっても何のことはない、南と北が逆転しているだけの地図だ。それでもこれを拡げてみると、普通の世界地図とは受ける感じがぜんぜん違う。

タイトルには「ダウンアンダーの世界地図」とあって、うかつなことに知らなかったが、ダウンアンダーとは「オーストラリア[ニュージーランド]の」と辞書にある。なるほど地図の上半分の中央にオーストラリアとニュージーランドが堂々と居座り、その下にインドネシアが這いつくばっている。ニュージーランドの左手、ややこしいことに東側になるのだが、ここは広漠とした太平洋が広がり、その果てには南アメリカが逆三角形に突き出している。オーストラリアの右手、西側にはインド洋が広がり、その果てにアフリカがちょんと突き出している。北半球、つまり下側はごちゃごちゃと陸地が固まって、あの太平洋ですら逆三角形の尻つぼみの海で、さして広くも感じない。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が圧倒的に目に入るのだ。

この地図にはコメントがあって「南が上の地図を見せたらといって、謝れといわれる筋合いはない」と強気だ。なぜかというと地図の上が北なのは、数百年も前に北半球の航海者や探検家が北極星や磁気コンパスを使ったからだという。なるほど、なるほど、しかも歴史の初期には東(オリエント)が地図の上側だったので、「オリエンテーション」という言葉はこれから来ているのだと。開発が何百年か続けば、南の国が北半球の国々の「下」にいる理由は何もない、と意気軒昂である。

半分はジョークだろうが、この地図を拡げてしみじみ見ているとこういった南の人々の思いが分からなくもない。メルカトル法の地図だから南の海の広さが強調されてはいるが、それにしてもこの視点で見ると不思議なことにオーストラリアの重みが違う。よく視点を変えてものを見ろといわれたが、単なる地図であってもやはり実際に見るにしくはない。たまには股を拡げて天の橋立を逆さに覗いてみる必要があるようだ。


1998.9.22.


スペインの強盗

ひどくもめた会議が終わって、成功とはいえないまでもまあまあかなぁといくらかの安堵があったのだろう、スペインの首都マドリードは思ったより寒かったが、すっかり茶色になったラティロ公園の木々が燦々と輝く陽の光で黄金色に変わって心を躍らせる。広々とした池の畔を巡って、プラド美術館別館に向かう途中、突然それが起こった。

最初、ぼくは何が起こったのか全く分からなかった。柔らかいが、ガッチリしたものが首を絞め、いきなり景色が空に変わり、ついで頭が地面をこすった。ズボンのポケットに手を突っ込まれてやっと強盗にあったのだと、妙に納得がいく。とたんにその朝両替したばかりの現金2万円近くを盗られまいと大声をだして奮闘した。が、無言の手が上着やシャツを引っ張り、ズボンの内側に入るのを感じると、左側の隠しポケットに入れたパスポートやカードを守る方が優先だ。エビのように身を曲げ、なんとしてでもパスポートを盗られまいとする一方で、真っ昼間に何でこんな目に遭わなければいけないんだとその理不尽さに腹が立つ。

 

後から考えるとほんの1,2分だったのだろう。後ろからジョギング中の人が大声を出してくれたらしい。関わり合いになりたくなかったのかそのまま走り去ったが、それでも強盗は素早く逃げ、一緒にいた友人とぼくはカメラと現金を盗られただけで済んだが、いやはや惨憺たる有様で、眼鏡のレンズは両方とも飛び散るは、防御物のない頭の皮はスリむくは、防寒衣は泥だらけ。しかし、最悪なのはその後に来た。

 

自前のアドレナリンをすべて使い果たした後遺症なのだろうか、やっと探し当てた警察署へ行くまでに身体中から力が抜け、腑抜けのようになって、情けないことに「オレは男の子しっかりしなきゃ」といい聞かせる始末。おまけに英語は通じないは所轄が違うから別の警察署へ行けだと。小太りの女性警官が、くれた地図を指して3番目の角を右へという、
「スリー」と指を3本だして、
「レフト!」
「ターン・トゥ・レフト?」
「アゥ、ライト、ライト!はっはっは!」

のんきなもんだ。チクショと思ったがそれでも妙に気分が落ち着く。

 

今度の警察署は親切で、英語の分かる人もいて被害届(なんと日本語のがあった)に署名してくれたし、一応病院で診察するからと連れていってくれ、精神安定剤らしきものをもらった上に、ホテルまでパトカーで送ってくれた。 

 

人 間は弱い。70年近く人をやっていてもこういう異常時の後に平静でいられない。正直に言うと、まず何もかも放り出してうちに帰りたい、という幼児のような 願望におそわれる。それを抑えるのはオレは男の子、オレは男の子という呪文と、次に来る心を焼くような口惜しさである。あの時とっさに身を翻して当て身の 一つも入れてやれたら、襲撃を事前に察知してとっさに身を沈め、どんでん返しをしてやれたら、いやいやそれよりも盗られたカメラに火薬を仕掛けて逃げる途 中で爆発させる方がやっつけ甲斐があるなどと、ギリギリと歯ぎしりする思いで出来もしない想像を夢うつつの中で繰り返す。

 

そんな思いを癒してくれるまでの十分な時間もない時に、ぼくは保険会社の代理店と交渉しなければならなかったが、そこでもう一つ口惜しい思いにぶつかった。状況説明をしたのだが、

「怪我はありませんでしたか」と相手がいう。
「節々が痛かったし、頭に擦り傷ですね」
「治療費は払ったんですか?」

 

慣れというのは恐ろしい。この人はしょっちゅうこの手の話を聞かされるのだろうとは思う。それにしても、大変でしたねとか、たいしたことがなくて良かったで すね、という言葉がどこかに入るのが人情というものではあるまいか。たとえそれが応対マニュアルであってもいいのだ。あるいはスペインへ連れていって、強 盗にあってもらった方が分かるかもしれない。ダイナーズクラブという一流の代理店だが、ぼくは今後予定されている旅行にそこと契約するつもりはない。

 

それはともかく、世界中どこにも悪いやつがいるのは承知の上で、身体ばかり発達し、その金壷まなこの奥にはネズミほどの脳もないこのスペイン野郎共は、その 昔、史上に名高いオランダのナールデンの虐殺に参加したスペイン帝国軍の末裔ではあるまいかと、小銭ポケットを破られたズボンをはく度に思うのである。

 

 

 

1999.4.9.

 


カナダの中の英国とフランス

昭和40年、東京オリンピックの翌年だから1965年になるが、ぼくは生まれて初めて北極を超えた。やがてたどり着いた宿からロンドン塔を見に行くべく、若かったぼくは意気揚々とタクシーに乗り込み、ロンドンタワーへ!と注文した。


かなり年輩の白いひげを蓄えている運転手氏はそのときニヤッと笑って、
「そりゃあんたさん、タワー・オブ・ロンドンのことじゃなかろうか」
といったもんだ。たちまちお上りさんと見破られて、途中車を止めては、あれが「ザ・タイムズ」の本社だとか、向こうに見えるのが「タワーブリッジ」だとか、まるで田舎にいる親父に案内してもらうようなことになった。

 

それからちょうど11年後、そのロンドン塔へ行くという仲間と別れて一人、対岸に係留されている朝鮮戦争でも活躍した記念艦、一等巡洋艦のHMSベルファストを見に行った。小雨のしょぼ降る中、誰もいない舷門に近づくとどこからか年輩の立派な男の人がでてきて、切符をどうぞという。
「イャーそれは申し訳ない、切符のことを忘れていました。」
「いやいや、気にしなさんな、気にしなさんな」と目の前に広げた手を振り、
「ほらあそこに見える小屋で売っているよ」と肩を抱かんばかりに説明してくれる。
いってみれば、こういったことがぼくの印象にある英国である。

 

今年のゴールデンウィークの最中、会議でオタワにいた。例によって缶詰だったが、事務局整理日の一日、チャンス到来とばかり仲間を語らってバスで2 時間半ほど離れたモントリオールへ行くことにした。9時5分過ぎにバスターミナルに到着すると、9時ちょうどにバスが出たばかり、もうちっと早くくればよ かったね、と時計を見上げていたら、
「バスはいま出たばかりよ、だいぶ時間があるわね」
と話しかけてきたのは、もう70歳はとうに過ぎているだろうか、ぼくぐらいの背丈で、白髪のぽっちゃりした女性である。


この人もどうやらバスを捕まえ損ねて退屈していたのだろう、日本からきたの?から始まって、今オタワに住んでるいが、以前はモントリオールにいたのだと。 あそこはきれいな町でね、時々そうするのだけれども、今日もモントリオールに住んでいる友達を訪ねて行くのよ、とにっこりする。ゆっくりゆっくり、穏やか な英語で話してくれるから、なんとか分かる。花柄のワンピースが丸っこい身体に似合って、いかにも優しげな女性である。

 

「私の若い頃、20年ほどイギリスに住んでいたの。」
この人は会議で使うユナイデッド・キングダムといわずにイングランドといった。柔らかくイングランドと発音するときに娘時代を思い出したのだろう、鮮やかな青い目がちょっと遠くなった。

 

バスがモントリオール郊外の停留所に止まると、後ろに座っていたくだんの女性がぼくの傍らを通りながら、ほら、あそこに友達が迎えにきているわ、と指さして小さく手を振る。乗用車に寄りかかって待っていたその友達に満面の笑みが広がった。
「気をつけてね、いい休日を」
「ありがとう、あなたを忘れませんよ。」

 

や がてバスがモントリオールの中心部に差し掛かると、信号は青なのに車はびくとも動かない。夜の会合のためにここには3時間半しかいられないのだから遅延は 困る。窓からひょいと下を見るとたった一つ道路際にある空間にバックで車を入れようとしている乗用車が頑として動かない。これをよけようと1台の車がバス の前に割り込んでいるのだ。かれこれ10分ほどもやりくりして、その車はやっとその空間に収まった。バスの運転手はそれでも苦笑いをしながら、頑固で悪び れないその若い女性の運転者にフランス語で何かいっている。人のことなんぞお構いなし、いやまさにここケベック州はフランスだ。

 

ど うせのことならと、もっとも昔の面影を残すセントローレンス川に面したオールド・モントリオールへ下って行くと、石造りの教会、狭い路地もそうだが、なん といっても行き交う人たちが話すのはみんなフランス語、道路標識さえ英語がない。ちょうど昼時、お腹もへったね、と半地下の面白そうなレストランに入った ら満杯。
「すいませんねぇ、ごらんの通りで。1時になったら空きますから10分ほど回ってきてくれませんか、席は必ず取っておきますから。」
まさにフランス人といったギャルソンが開いた両手を挙げて、それでも英語でいう。

 

しょうがないかと、ぶらぶら川岸へ出るとそこにオープンテラスがあって、サンドウィッチがいかにも旨そうだ。そうだここにしようと衆議は一決したが、
「でも1時に約束してきたから、大丈夫かなぁ」
「大丈夫、だいじょうぶ、彼らは客が来なければ両手を広げて、オー・ラ・ラというだけさ。それがフランス人だよ。」

 

 


1999.7.11.


ソ連の潜水艦

ぼくが中学生で、もちろん戦争たけなわだから、大抵の仲間が軍人になろうと決心していた時代、友達の1人が幼年学校を一緒に受けないかと誘いを掛けてきた。われわれの年代ではすぐ分かるが陸軍幼年学校というのは、いってみれば陸軍士官学校の予科みたいなもので、ここを受けるということは将来陸軍士官になることを意味する。

 

ぼくの父親は昔サルベージ会社にいたことがあり、南洋、つまり今のミクロネシアやポリネシアを指すのだが、そこへ行くときに乗った客船の待遇がいたく気に入ったようで、朝はベッドに入ったままモーニングコーヒーで目を覚ますんだぞと、何遍も聞かされた。それがあってか、かなりの海軍びいきで、あるとき海軍年鑑を買ってくれた。

 

昔からぼくも船が好きだったし、夢中になってその年鑑を何度も読み返し、重巡洋艦の那智や高雄、特型駆逐艦の雪クラスや雲クラスの写真を飽かず眺めたものだ。今に至るまでその排水量や兵装を覚えているからこれも三つ子の魂というものだろうか。

 

その上、あるとき先輩で海軍兵学校の1号生徒(最上級生)が3人ばかり学校へ来て、ぼくらを集めて演説をぶったのが利いた。短い白のジャケットに短剣を吊して颯爽と現れた先輩たちは、
「戦争では兵が大事である。しかし、その兵をまとめ上手く指揮する士官がいなければ勝つことは出来ない。諸君らはしっかり勉強して海軍兵学校へ来い。」
ぼくは完全に目がくらんだ。それでなくとも下地があったのだからたまらない。おれは海軍にするよ、とせっかく誘ってくれた友人の好意を無にし、海軍兵学校を受験したうえ最終日に見事落第したのだから世話はない。

 

それでも熱は冷めず、何時の頃からか潜水艦に魅入られた。戦争中「潜水艦西へ」というドイツのUボートの映画は父親にねだって何回も見に行ったし、コネのある友人から魚雷の実用頭部の図面を手に入れてその安全装置に感心したこともある。だから今でもD.A.レイナーの海洋小説「眼下の敵」や、フランク・ハーバートの「21世紀潜水艦」というSFなどは表題を見ただけで胸がときめく。

 

昨年2月のこと、シドニーの海事博物館を道路の上から眺めると、記念艦の巡洋艦バンパイアがいることは知っていたが、その艦の左舷になにやら見慣れぬ船が係留されているではないか。黒く、低く、丸い船体はどう見ても潜水艦だ。外見からすればディーゼル推進の、それもかなり変わったかたち、というよりなんとなしスマートさが足りない。館内に入るのは後回しにして、取り敢えず説明の掲示を見ると単に旧ソ連の潜水艦とだけある。どういうタイプなのか、なぜここにあるのか、いっさい説明がない。しかし博物館とバンパイア、それに潜水艦と共通の券を15ドルで買えば中が見られるという。よしよし、1300円ほどでぼくは生まれて初めて潜水艦の中を見られるのだ。

 

バンパイアの見学もそこそこに、隣への踏み板へ回ると、年輩の水兵服のおじさんが切符を確認してどうぞという。さっき司令塔の上に子供の姿を見たから、司令塔へ上がれるの、と聞くとそれは駄目だという。どうやら特別なコネがいるらしい。それでもわくわくしながら前部ハッチから艦内に入る。

 

狭いといえば確かに狭い。しかし、天井が高いのでそれほど圧迫感がない。円形の船体の両側はぎっしり計器や装備が詰まっているから中央通路の上は高く感じるのだ。しかし、隔壁には驚いた。水密隔壁だから狭いのには驚かないが、隔壁の厚みが思ったよりずっと厚い。普通の船のコーミングにように、よいしょと跨いで通るという感覚とはまったく違う。 円形の隔壁通路は直径が1メートルあるかなしで、厚みは、そう少し大げさにいうと大の大人が両足を踏ん張り腰を落として広げたほどもある。だから頭をかがめ、横を向いて足をまっすぐ延ばし、身体をずらして向こう側に足を落としてからくぐり抜ける、そんな感じだ。実際の潜水艦に入ってみると、深海の水圧というものがいかに大きいかを身をもって感じる。

 

係留中なのに大きな音がする。周りに聞くと換気用のファンをエンジンで回しているのだとか。電動ファンでは考えられないくらい大きい音だからほんとにエンジンを回しているのかもしれない。それにしてもこんな艦の中にいて深海で爆雷攻撃を受けたらそりゃ怖いだろう。

 

後部ハッチから日光の中に出たときには、不覚にも海軍兵学校に落第したことを感謝しなければならないのかなと思ったものだ。

 


1999.10.24.


ユーモアとウィット

昭和30年に文芸ベストテンの第5位に入った随筆「うちの宿六」の著者が福島慶子で、ご存じの方も多いだろうが、美術評論家であり、福島コレクションを作り上げたまあ粋人というのだろうか、福島繁太郎の夫人でもある。20台の生意気盛りだったぼくがこの本に惹かれたのは、この文章が何でこんなにおかしいのだろうと思ったからだ。

 

例えば、著者の見ている前で蠅が1匹飛んで過ぎる。その後からふんどし一丁の繁太郎氏、つまり彼女の宿六が蠅叩きを手に、よっこらとそれを追いかけて通り過ぎる。たったそれだけの文章が、彼女の手に掛かると何ともおかしい。上質なユーモアを漂わせる。一体その秘密はどこにあるのだろうかと、ぼくは何度も考えたものだ。

 

少なくとも、これは面白いことなのだが、といったら少しも面白くない。余裕のある心で客観的に事実を記述する方がよほど面白くなるようだ。ユーモアの精神は一種の客観視ではないかというのがそのときのぼくの感じだった。

 

昭和65年の3月に亡くなったが、慶応大学の名誉教授だった池田潔の随筆はぼくが一番好きな文章である。イギリスのパブリックスクールを主題にした「自由と規律」、同じくイギリスの大学の「よき時代のよき大学」、一体どうやったらこんな文章が書けるのだろうと、何回ため息をついたことか。

 

学内にある教会の尖塔に、どうやってか便器をぶら下げたやつがいた。大学当局は掲示を出した。「これを撤去してほしい。われわれはきみのスポーツマンシップに期待する」。翌日、便器は消えていた。こういう事実をわっはっはではなく、にんまりとするような、それでいて心の中に涼風が通り過ぎるような文章で表現するというのは並大抵の腕ではない。ユーモアというのは一体どこから来ているのだろう。

 

ずいぶん前に、「ユーモアとウイット」という題名の本を見つけた。確か新書だったと思うのだがいくら探してもうちの本棚から消えている。著者も忘れて誰に聞いてもそれが分からない。インターネットで検索してもらって、やっと分かった。新書ではなく、昭和64年発行の一般書籍で著者は阿刀田高、ほんとの題名は「ユーモア×ウイット=?」という。

 

この本の中でぼくが憶えているのは、「ユーモアというのは自らを戯画化できる能力である」という一節だけだ。そして、確か極限状態であっても発揮できるのがほんとのユーモアである、とも書いてあった、ような気がする。それが頭にあったのだろう、ぼくは読んでいてはっと気がついた。

 

ア リステア・マクリーンのあまりにも有名な処女作「女王陛下のユリシーズ号」に出てくる一節だ。HMSユリシーズの軍医ターナーと仲のいい朋輩カポック・ キッドはあとで恋人のイニシャルだと知れる「R」の大文字を刺繍したキルティングをいつも着ている。これが最後という激戦で、ターナーがふと気がつくとハ インケルの機銃掃射の銃弾を受けてカポック・キッドが艦橋に倒れているのが見えた。

 

「あの生き生きした両眼の碧色は、すでにどんよりくもり、顔は血の気が引いて白い。片手がぶつぶつあいたカポックを上から下にむなしくさまよい、ならんだ穴をまさぐった。不意に、彼はにっこり笑うと、キルティングの服に視線を落とした。
『だいなしだ』ささやくような声。『だいなしにしてくれた』さまようような手がわきへすべり落ち、手のひらが上を向き、顔がかっくりと胸元にたれた。亜麻色の髪が、ひらひらと風になびいた。」(村上博基訳)

 

自 らを戯画化できる、それもさりげなくと、いうは易しいけれども、文章で表すとなると至難の業といえるだろう。極限状態でそれを発揮できるようなほんとの ユーモアを持った人にぼくはとうてい辿り着けそうもない。それでもそういう人がこの世にはいるのだ。最近ぼくが驚嘆したのは「五体不満足」という本を読ん でである。

 

著 者の乙武洋匡は先天的に四肢のほとんどない障害者である。駅で車椅子に乗って友人と待ち合わせしていたがなかなか来ない。そのとき、その筋のお兄さんとお ぼしき、おっかなそうな人と偶然のことだが話をして名刺までもらう。変な経験だったとうちに帰って両親に話をしたら、母は平然としてそんなことは当たり前 だといってのける。
「え、どうして?」
「だって、ああいう方たちは、ツメるといっても小指一本程度でしょう。あなたなんか、全身ツメちゃってるんだもん。それは敬意を表されるわよ。」

 

ぼくはこういうお母さんを育てた、そのまたお母さんにぜひ会ってみたい。日本人のユーモア精神も捨てたもんじゃないではないか。叶わぬとは知りながら、こういう精神の文章を書いてみたい。また、そういった文章を読んでみたい。  

 

   

 

 

2000.1.23.


信濃丸残映

「ね、学生さん今度の日曜日、ひま?」
タマちゃんがそっという。映画を見に行こうという誘いだ。

 

昭和24年というのは、函館で学生だったぼくには厳しい時期だった。若くて元気だったが、なにせ食べるものがない。金ももちろんない。学生寮のある七重浜から市電に乗れる五稜郭まで、30分歩くのはちっとも苦にならなかったが、ハラが減るのには参った。

 

その道程の中程に熨しイカの工場があって、飛び込みでアルバイトをやらせてくれと頼んだら、快く働かせてくれることになった。“水産の学生さん”は当時函館で最高学府と見なされていたから、ぼろを着ていても信用はあった。

 

タマちゃんは工場の十何人かの女工さんたちの中では目立たない存在で、背が高く、それが恥ずかしいといっていつも猫背の、ちょうど八代亜紀をうんと細くしたような顔をしていた。ひっそりと歩くのを見て、ぼくはいつも猫を連想したが、気だての優しい人で、やっと工面して皮付きのままゆでたジャガイモだけのぼくの弁当を半分ちょうだいという。その代わりだといってタマちゃんは自分のもってきた白いご飯とおかずの入ったアルミの弁当箱をそっと渡してくれた。

 

白いご飯の魅力には勝てなかったが、年上とはいえ女の子に世話になるのはどうも気が引けたし、沽券に関わるという思いもあった。何よりも、弁当箱に添えられた赤い箸がぼくにとても気恥ずかしい思いをさせたのだ。だからせっかくの好意を仏頂面で受け取ることになったのだが、今でも悪いことをしたという思いが強い。一宿はなかったが、こうして一飯の恩義があったから、ぼくはタマちゃんの誘いを断れなかった。

 

「一緒に歩くのはいやでしょ、だから・・」
いつ用意したのか、タマちゃんは停留所で市電の切符と、映画館の切符を手渡してくれて、私は後ろから乗るから、あんたは前から乗れという。まっすぐ前を向いたまま、映画館に入って座ったら、となりにタマちゃんがいた。どんな映画だったかとんと憶えていないが、“ギーンザの柳・・”という主題歌と、スクリーン一杯にグツグツと煮えるすき焼き鍋だけは未だに瞼に焼き付いて離れない。

 

こういう軟弱なアルバイトをしていては、おれはダメになる。その夜、寮の煎餅布団にくるまって、ぼくは一大決心をした。いささか自信はなかったが、軟弱でないアルバイトがあるのだ。今でもそうだろうが、函館には大きな貨物船の着く埠頭や桟橋がなく、揚げ荷には沖がかりでサンパンを使うしか方法がない。本船のダンブルの中での二十四時間作業、まあ沖仲仕だろうが、そのアルバイトだ。

 

本船のデリッキ1本に4枚の大きなもっこが付く。バラで岩塩を積んでいるから、ツルハシとスコップでそのもっこを一杯にすると交代で引き揚げるという寸法 だ。1枚に8人付くから最初は悠々たるもんで、早く揚げろーなんぞといっていたが、やがて陽が回り、あたりが薄暗くなる頃にはデリッキに追いかけられるよ うになった。塩で手は膨れる、汗だか飛び散った岩塩だか、目に入って止めどもなく涙が出る。まだ半分もあるんだ、と弱音を吐く頃、やっと夜食の時間になっ た。

 

甲板に出て、新鮮な空気を吸いながら食べる、ヘギに包まれた胚芽米の握り飯3個と、3切れのたくあんがこの世のものと思えないほど美味い。塩っ辛い指をなめな がらふと向こうを見ると、三島型の貨物船が黒くかすんで見える。かなり大きな船体を少し左舷に傾けて、いかにも老朽船という感じだ。

「学生さんよ。あの船が分かるかね。信濃丸を知っとろうが。」

 

日本海海戦で敵艦見ゆ、を打電したあの信濃丸が目の前にいるのだ。ぼくはぶるっと震えて見つめ直す。もっこ仲間の、二、三枚歯が欠けたおじいさんが黙ってぼ くと並んで、暗闇にかすれて行く信濃丸を見つめる。もう解体するそうな、と教えてくれた頃にはすっかり闇の彼方だった。

 

再開された後半の作業は、ぼくには地獄だった。1人欠ければ仲間に負担がかかる。しかし、どう頑張っても早くせんかーと怒鳴る甲板のタリーに応えることができないな、と思いながら、意識朦朧としてきた頃、あのおじいさんが隅へいってしょんべんをしてこいという。
「ゆっくりしてきな」
ダンブルの壁に額をつけ、出そうもない小便を無理に出すと、岩塩の上に赤い色が広がった。悪いなぁ、でも岩塩は再結晶するんだから大丈夫だろうなと、甲板へ上がる気力もないことを弁解する。

 

ぼくの一生でもっとも長い二十四時間が過ぎ、千円という当時の大金を手にしたぼくを、あのおじいさんが自宅へ招待してくれた。肥料会社の長い塀に、錆びたト タン板を差し掛けただけの小屋がおじいさんの住まいで、一斗缶に薪をくべて暖をとりながら、焼酎をご馳走してくれた。もっとちゃんと働かなきゃダメだよ、 といわれると思ったのに、
「学生さんはな、勉強しなきゃ、働くのもいい加減にな」

 

どういうものか、ぼくは親切な人に行き当たる。こちらからは何にもできないのに。飲めもしない焼酎をちびちびなめながら、「おれはもう終わりだが、あんたはまだ若いんだから」と話を聞いていると、燃える薪に照らされたおじいさんの姿にいつの間にか信濃丸の残映が重なった。

 

 

2001.5.1.

 


シャフトトンネル

民主党、といっても鳩山由紀夫さんの民主党ではない。民主党総裁の芦田均さんが総理大臣だったのは、昭和23年の3月10日から10月15日だったと、インターネットがいっている。だからそれはどうでも昭和23年の夏に違いない。

 

その年の春に、ぼくはまだ旧制の専門学校だった今の北海道大学水産学部に入学した。一向に勉強ができなくて都落ちをしたのだが、せっかく北海道くんだりまで出かけたからには1年間は帰るのをよそうと決心していた。それがたちまちクタクタとなって、夏休みには嬉々としてうちへ帰ったのだから世話はない。ちょっとばかりホームシックでもあった。

 

一夏を過ごした後、ふとした動機からまだ北海道航路に就航していた氷川丸で学校に戻ることになり、ちょうど今の桜木町は汽車道の付け根あたりから、サンパンに乗って本船に乗り込んだ。1万トンクラスの船に1人で乗り込んだのは初めてだし、窓のない船底近い雑魚寝の船室だったが、それでも船旅はいい。

 

浦賀水道に差し掛かるちょっと前、だったと思う。急に本船が止まって、タラップを降ろしている。何だ、何だとプロムナードデッキの右舷側から下を覗くと、ものすごい勢いで大発が接舷しようとしている。ダイハツというのは大型発動機艇の略だと思うのだが、昔の海軍、いや陸軍かな、はっきりしないがそこが持っていた上陸用舟艇である。

 

その 四角い不格好な艇からタラップを上がってきたのは何と吉田茂さんだった。葉巻こそくわえていなかったが、あの独特の風貌を見間違えようもない。第一次吉田 内閣が日本初の片山社会党内閣に変わり、更に芦田民主党内閣に譲った直後のことだ。自由党総裁の吉田さんは野にあったわけで、本船の向かう室蘭への遊説の 旅、と後で知った。

 

間 近で見ることはなかったが、吉田さんは離れて見ても独特の威圧感がある。政治家といえば、偶然にヤマハホールのエレベータ前で緒方竹虎さんを見た。小柄で ただ静かに立っているだけだったが、圧倒的な威厳があった。2年ほど前、これも偶然ワシントンへ行く飛行機に乗り合わせた宮沢喜一さんとシャトルバスで目 の前に座ったが、そういった感じは全くなかった。ぼくの年のなせる技なのか。

 

「ご飯でーす!」と触れ回る若い船員について食堂へ行くと、どんぶりの薄い汁に2センチ程に切った平たい麺が浮いているだけ、それでも米の持参なしにものが食べられるのは当時としては破格の待遇だ。

 

恒 常的な空きっ腹を抱えて明日の朝まで船底で過ごすわけには行かない。水産といえばいささか船に関係があろうかと、おそるおそるブリッジへ上がって、見せて もらえますかと聞くといいよ、どうぞと招じ入れてくれた。思ったよりずっと広いブリッジの内部は静かで、ただ計器の光があるだけ、陸地のある左舷側もほと んど明かりが見えない。

 

あ んたは学生なんだから、エンジンルームも見ておいで、と当直士官が連絡をしてくれる。「ひとりやるからな」という連絡だった。ごそごそと降りていったエン ジンルームは光と音のあふれる別世界で、2列に並んだ1万1千馬力ディーゼルエンジンの上にある弁のロッドだろうか、その動きが壮観だ。

 

若いエンジニアがぼくの耳のそばで「面白いもんを・・」と怒鳴って、後ろの方へ引っ張って行く。小さな扉から入って閉めると音が遮断されて、ただビーンと腹に響くような音だけが残る。
「ここがシャフト・トンネルよ、目の前にあるのがスクリューのシャフトさ。きれいだろう」

 

こ れがシャフト? 一抱えなんてもんじゃない。真鍮色にぴかぴか輝く山が、ずっと彼方まで続いている、といった感じだ。どだい、回っているようには全然見え ない。ぼくの頭ほども高さのあるシャフトが、ビリッとも動かないでただ光っている。わずかにその光の縞が微妙に揺れるのと、トンネル自体が船の動きを伝え るのがシャフトの回っている証拠だ。じっと見ていると、なめらかな金属面に引き込まれそうになる。

 

船の内臓の、そのまた奥にこんな思いもかけぬ美しいものがあるのか。山下公園に係留されている氷川丸を見るたびに、ぼくはこれを思い出す。明かりもつかないトンネルの中で、シャフトはまだじっと光っているんだろうか? 

 

 

 

2001.5.

 


コロラドの材料屋

抜けるような濃紺の空を仰いで、西の方角に目を降ろしてゆくと白い雪を頂いたロッキーの山並みが延々と連なって遙かに見渡せる。コロラド州の州都デンバーはそんな街だ。空港へ降りてゆく機内の窓から見ると、あちこちに大きな円形の草地が見えて、それ以外は茶色の何とも荒涼とした感じだが、街の住宅地は広々として樹木も多く、アメリカの中でも住みたいところの上位にいつも入るのだという。


そのデンバーに10年も住みつついている友人から、ぜひ来いよと声がかかったのはもう何年も前のことだし、3年前には雪でせっかくのチャンスを逸してもいる。今年ワシントンDCでの会議の後、何が何でも行くぞ、と決心したのが天に届いたのか1週間のほとんどが快晴だった。

 

日本でもそうだが、地方都市というのは大都会にないゆったりした暖かみが残っている。旅行者の目ではなく、コミュニティに根を下ろした住人の後について街を歩く(車でだが)とまた違った感慨があるものだとつくづく感じる。

 

量は少ないんだが、家庭料理で面白いいレストランがあるんだぜ、と案内してくれたのが、ダウンタウンにある“アンドレ”という小綺麗な店。なるほど昼前だというのに既に満員、全部と言っていいほどお客さんは老人だ。チキンパイと付け合わせ、パンにデザートのケーキ、コーヒーで9ドルというから、老人仲間としてはまことにぴったり。隣に座っている年輩のご婦人が、しきりとぼくに話しかける。

 

「申し訳ないんですが、マダム。もう少しゆっくり話していただけると分かると思うんですが。」
「ム、まぁ、私はよくしゃべるからねぇ、ここのお店はアンドレよ、書かなくてもナプキンに書いてあるから、これをお持ちなさいな。」
親切に自分の前にあるナプキンを四つに畳んで記録魔であるぼくの手助けをしてくれた。友人は隣でにこにこしながら、彼はジュニアハイスクールの友達で、日本から来ているんだと説明している。

 

ぼくが船を造ることを知っている友人は、行きたいところへ連れて行ってやるぜと親切に言ってくれる。アメリカへ行ってもそういう機会は滅多にないから、渡りに船と早速模型店に連れて行ってもらった。ぼくの目当ては材料、特に木材と糸なんだが、糸に関する限りはどこへ行ってもいいものはなかった。

 

リネンの糸があればと布地屋まで散々さがしたが、ほとんどはポリエステルかナイロン、さもなければ木綿にポリエステルコーティング、あるいは木綿100% ばかり。そのうちリネンと印刷してある糸があって、うぁ、あったじゃないのと驚喜したがどうもおかしい。ひっくり返したらポリエステルと書いてある。

 

「ちょっと、ちょっと、何でリネンとポリエステルと両方書いてあるの?」
「いやいや、これはリネンカラーという意味です。」
何がカラーだ、ややっこしいことを書いてくれるなと文句の一つも言いたくなる。とにかくアメリカで麻糸を探すのはやめた方がいい。そういえば、アナポリスの海事博物館のワークショップを見せてもらったときも、リネンの糸はかなり前に買ったものだがといっていたっけ。

 

一方で、材木のほうはかなり揃っている。コロラドはあまり船に縁がない州だと思うのだが、木の種類といい、カットの種類といい、思ったよりずっといい。インチサイズというのが気になるが、参考までに㎜換算でその値段を記しておこう。

  • 0.8㎜厚航空ベニヤ、30×61㎝ 7.2ドル(1ドル108円として780円)
  • 6㎜厚マホガニー材、7.7㎝×61㎝ 5.1ドル(550円)
  • 1㎜厚ウォルナット材、7.7㎝×61㎝ 2.69ドル(290円)
  • 同じくマホガニー材も値段は同じ。
  • 0.5㎜角シナ材28㎝、17本入り、1.99ドル(215円)
  • 1㎜角シナ材28㎝、15本入り、1.99ドル(215円)

仕上げと材木の質はかなりいいから、値段はまあ安いといえるだろう。もちろんそこへ行く料金を別にしてだが。もし何かの機会があってアメリカへ行くことがあったら、材料屋と日曜大工センターのような店をぜひ眺めてみることをおすすめする。  

 

2000.11.21.


アメリカ・人さまざま

「私の隣は中国の大人かと思いましたよ。」
と、桶谷さんがからかう。

 

ちょっと事情があって、ぼくはISDCという団体から1人でその会議に出席していた。隣にいたのもOIEという非政府組織の代表で、鼻下に髭を蓄え、有余るほどの髪の毛を持てあましているような比較的若い東洋人ひとり。何となく気になってレセプションの時に話をしたら、農水省から出向しているもちろん日本人で、パリに事務所があるんだとか。それが桶谷さんだった。

 

そのうちなんとザ・ロープの会員であることも分かった。もう除名されているかも知れませんがね、といいながら、日本に帰ったらまた船造りを始めたいと、開店休業中の落ちこぼれ同士で話が弾んだ。

 

その桶谷さんの話。あたかも米国大統領選挙の前で、ブッシュかゴアかと沸いた頃、
「ここへ来るときに乗ったタクシーの運ちゃんなんですがね、おれは共和党員だけど、今回ばかりはゴアに投票するっていうんですよ。」
「ふーん、なんで?」
「ブッシュが親子二代で大統領になるのはよくない、アメリカは帝国じゃないんだから、とこうですよ。」

タクシーの運ちゃんといえば、ぼくの知っている国では大体おしゃべりが多い。ワシントンから帰るときのタクシーでも、ぼくが乗るなり日本人だろ、と話しかけてきた。おれはエチオピア人だが、と浅黒い痩身で目ばかりぎょろりとした彼が、半身でちらちらとぼくを見ながらどうして日本はアメリカと戦争したんだという。

 

「それは複雑な問題だが、日本はアメリカ、イギリス、中国、オランダに囲まれてね」

「で、日本は自分を守るために戦争したのか?」
「まぁ、それも原因の一つだね」
「それで、あんたはアメリカを憎んでいるのか?」
「憎んではいないが、国と国との間にはほんとの友情は生まれないよ。人と人との間にはどんな国でもほんとの友情が生まれるけどね」
「人と人との間にはねぇ、いやー、サンキュウ!」

 

ぼくの英語力ではこんな程度の説明しかできないが、サンキューといわれたのには驚いた。しかしもっと驚いたのは、何であんたは戦争のことなんかを知っているのかと彼に聞かれたときだ。
「だってぼくはその時、ジュニア・ハイスクールにいたからね」
「ほんとか? おれはあんたが40代だと思った!」

 

お世辞とも思えないが、アメリカでは若く見られることが多い。アメリカ代表団主催の“ノンホスト・レセプション”と称する30ドルも会費を取られるレセプ ションで、ぼくの隣になったのは、CI(コンシューマーズ・インターナショナル)の代表でインド系のイギリス人女性だった。豊かな黒髪をひっつめにして、 ちっとも飾らないが、大きな目が印象的だ。「会議も疲れるよね」という話から、「あなたは何年生まれ?」という。

 

「ぼくは・・、いや、あなたはぼくが幾つだと思う?」
「アイヴ・ノーアイディア」
というのがその返事だった。分からない、というのをそういう言い方があるのかと、大いに勉強になったが、「1930年生まれだよ」と言ったとたん、
「ノー!」
さすがに“ウソ”とはいわなかったが、彼女は、ぼくを55才と思っていたという。

もう何年か前だが、ワシントンの直行便が無くて、ニューヨークからワシントンへターボプロップ機で飛ぼうとしていたときのこと。後で聞いたら嵐が来ていた らしく、ぼくの便は延期延期でどうなることやら、事情を知っていそうな人もいない。

 

そこへ、地上勤務員だろう、航空会社の作業服を着た人が通り過ぎた。「もしもし」と話しかけたが、振り向いてもくれない。忙しいのかなぁと思いながらも、足ぐらい止めてくれても良さそうにと、いささか腹立たしい思いをしていると、やがてくだんの作業員氏が戻ってくるのが見 えた。ひどく痩せた金髪の白人だが、うつむき加減でどうも元気がない。今度こそ聞いてやろうとその前に立って、「この便はいつ出そうか」と聞く。


「ぼ、ぼくは耳がよく聞こえないんで」と補聴器を示しながら、
「だ、誰か他の人が説明すると思いますが・・」
聞き取りにくい声で少しどもりながら、それでもじっとぼくの顔を見ていた彼は、突然両手でぼくの手を握ってきた。
「サ、サンキュウ、サンキュウ、ぼくに話をしてくれて・・」
泣かんばかりの顔が、これまでどれほど彼が話をしてもらえなかったか、ゴツゴツした手を通してぼくに伝わってきた。

デンバーに住んでいる友人が、近くの大学町ボールダーに連れて行ってくれた。そこで紹介してくれたのがキャシーという日系アメリカ人女性である。完全な日 本語と英語を話し、友人にいわせると貴重な“バイカルチャー”だという。3人で街の灯りを見下ろすクラブで夕食を取りながら、2つの文化を理解するのは大 変なことだと話していると、「それでもねぇ」とキャシーがいう。どう見ても日本人という活発なキャシーの顔に一瞬陰がよぎる。

 

彼女は、何国人だとよくいわれる のだそうだ。
「私はアメリカ人、というのだけれども・・」
ぼくの感じでは、彼女の発想は基本的にアメリカ人だ。それでも、「日系人と言わせたいのよね」

 

別のカルチャーに対する優越感、それはどこにでもあるが、このおっとりしたボールダーの街でそれを聞くとちょっと悲しい。経歴に穴を開けないようにと、臨時の安月給で日本語を教えているという彼女の健闘を祈るばかりだ。  

 

  

 

2001.1.21.

 


海辺の家

どういう訳か、友人Mとは小学校1年の入学式の時に、仲のいい友達になった。ひょろりとやせて色白の、いかにも育ちがいいというタイプで、およそぼくと似合わない少年だったが、全くの正反対というのが、かえってよかったのかも知れない。やがて彼は芸大を経て建築設計屋となり、組織に合わぬという理由で、独自の考え方から、ちっとも流行らない設計室を開いている。 

 

三浦半島は佐島の海辺に小さなぼろ家を見つけ、彼がそれに手を加えて第二の住処にしたのはもう二十年以上も前のことだ。文字通りの海辺で、海と建家を隔てるコンクリートの擁壁から見下ろすと、透明な水の下に丸っこい岩が見える。彼方にある笠島という低い小さな島の向こうに、天気のいい日には富士山を見はるかすことができる。

 

3月のある暖かい一日、小学校の同級生がその海辺の家に集まった。ぼく達の小学校は6年間担任も同じ、クラス替えもなく、おまけに男女同数だったから、ジジ・ババになっても仲がいい。もっとも、こういうところに集まるのは世間的にいうと、いささか変人に属する種族で、大銀行に勤めたあげく、本人のいう「しがない弁護士」になっていたり、息子に命じて、変色した5年もののチーズ(残念ながら大変うまい)を、オランダから馬に食わせるほど買わせて、ほんのちょっぴり分けてくれるのがいたり、大会社を退職して、いそいそと町会の副会長で走り回っているのもいる。全帆を満帆にした戦列艦のように堂々と振る舞うのは企業の健康保険の女医さんだ。

 

夫婦は似てくるらしく、奥方連もいってみれば大変ユニークである。友人Mの奥方は、優雅が洋服を着ているような人で、これほど似合った夫婦はいないと、もっぱらな評判ながら、Mが手術したチタン製の人工心臓弁が150年は保つと聞いて、「パパが死んだら、中古で出そうかしら…」とすごいことをいう。

 

フクちゃんのご希望だからね、とMがボートを降ろしてくれることになった。3メートルを超えるジョリーボートは、すべて彼の手製で、これも手製のビームにぶら下げて押しだし、直ぐ下の海へ降ろす。一頃と違って電動のホイストが付いたのでずいぶん楽になった。2座席、4本オールで沖に漕ぎ出す。漕艇はほんとに久しぶりだ。

 

スターン側に座った弁護士と、どうもオールが合わない。だいたいスターン側のおれに合わせるのがホントだろ、と彼は正当な文句を言うのだが、それに合わせて いたら艇は進むはずがないのだ。オールを握ったら船を進める、という本能がぼくにはある。オールなんぞおっぽらかして、空を眺めていたいという輩に付き合 うわけには行かない。とうとう彼は断念してオールを引き込み、ぼくはもっぱらオールを握る。

 

笠島の岩礁を抜けると、さすがに少しうねりが来た。いくらかローリングとピッチングが繰り返されて海の漕艇になる。低い目線から周囲の海原が盛り上がり、遙か な海辺の家が上下するのが見える。潮の香りが一段と強くなったようにも思えて、何年ぶりかの心地よい緊張で心が躍った。

 

次のクルーはMで、チタン心臓弁だろうと彼は海に慣れている。自慢じゃないが、ぼくだって中学時代はフィックスとはいえ、エイトを漕いだこともある。艇尾座席に座った巨漢の5年物チーズのおかげで、いくらかバウは上がったが、オールは見事に揃って、艇側の4つの輪が次々と航跡に並んで過ぎてゆく。ぱしゃぱ しゃと艇首に当たる水音と、時に吹き抜けてゆく風に、明日は身体が痛いだろうなと思いながらも、因果なことになかなか止められない。

 

海辺の家の出窓は、夕日を受ける位置にある。近辺の海でとれたシコ鰯のマリネやスズキの刺身など海の幸が並べられ、その日の朝、岸壁の下に漂ってきたワカメ を、M夫人が専用の引っ掛け棒で収穫したものを、さっと湯がいたのが鮮やかな緑を見せている。持ち寄りのワインや日本酒で、ワイワイとにぎやかに過ごす内 に、夕日の窓が赤く染まってきた。春霞であいにく富士山は見えないが、笠島がシルエットになり、手前の鏡のような海面を朱が放射状に広がる。

 

陽が落ちてしばらくは、電灯をつけないでその暮色を楽しもうと、ろうそくの用意までしてくれた友人Mの心遣いが、いや、明るいほうがいいよという大勢に押されて、敢えなく潰えたのが、この日の唯一の心残りだったのだが・・・。 

 

   

 

2001.4.4


セーレムの模型ギャラリー

7月の初め、全米シニア・オープンゴルフ大会での青木功の健闘を称える新聞記事が出ていた。優勝はならなくて残念だったが、その開催地がマサチューセッツ州のピーボディとあり、ゴルフ場が“当地のセーレムCC”とあったから、思わずホウホウと6年前を思い出した。


1995年の10月、わが会の中山さんの発案で、渡辺、鈴木、平戸の諸氏、それとぼくの5人でレンタカーを駆ってニューイングランドの海事博物館巡りをしたのだ。もっとも駆ったのはもっぱら中山さんで、後は完全な便乗組みだったが、われわれの行った最北端、ボストンから車で30分ほど(実際には迷いに迷って2時間近く掛かったが)の町がセーレムである。

 

植民地時代から、この町は貿易港として栄え、特に捕鯨船の基地としても有名だが、なんといってもアメリカで唯一魔女裁判が行われた所として名をあげていて、あちこちに魔女博物館と称する建物や土産店がある。しかし、われわれのお目当てだったピーボディ・エセックス博物館は、当時の生活用具やら、漁業関連の展示の他、帆船時代の捕鯨船の模型があり、鯨油を採取する竈やら、鯨体を解剖する方法が示されていて大変興味深い。その捕鯨船の実物、チャールス・W・モーガンを、われわれはその後ミスティックで見ることになる。

 

歩きつかれたその夕方、ホテルの部屋に中山さんから電話があった。
「いま渡辺さんから聞いたんですけどね、なんだか面白い店があるんだそうで・・」
その日は、治安の良い町だから自由行動をしようよということで、中山さんとぼくはそれぞれ単独、渡辺さんは平田さん、鈴木さんと3人で歩いていたそうな。午後も遅く、鈴木さんが”自然の呼び声”に答えなければならなくなって、うろうろしていたがあいにくトイレが見つからない。

 

「そこで、渡辺さんが近くの店に頼んで用を足したんだそうですが、なんとその店が船の模型を扱う店で、ワークショップまで見せてもらったというんですよ。ちょっと遅いんですが、これからその店にいって見ませんか。」
得たりやおうと、もう午後6時を回っていたが、二人でその店を訪ねた。正式には「ウォール・アメリカン・マリンモデル・ギャラリー」といういかめしい名前だ。閉まっている扉をたたくと、ややあって、顎鬚を生やした立派な紳士が扉を開けてくれる。われわれもシップモデラーで、日本から来たのだが、と刺を通じるとニッコリしてどうぞと招じ入れてくれた。

 

後からもらったパンフレットによると、この紳士がギャラリーのオーナーであり社長であるR.ミッチェル・ウォールさんで、30代後半から40代の長身でありながらがっしりした体躯、物静かな、いかにもニューイングランド人というタイプである。

 

店の中はさまざまな帆船の模型があり、アメリカの例に漏れず、近代船の模型も多い。ウォールさんはアメリカ中の海事博物館やモデラーから、優秀なモデラー兼コレクターとして認められているとのことで、パンフレットにある顧客名簿には24も記されていて、その中にはスミソニアン協会、マリナーズ・ミューゼアム、ボストン美術館、ミスティック海港博物館、USSコンスティテューション博物館など錚々たる名前が見える。コンスティテューション博物館のパンフレットにもその顔が載っている名物モデラーのウィリアム・ブローメルさんも”よく知っている”そうな。

 

モデルの販売はもとよりだが、特徴的なのは壊れたモデルの修理を本業の一つとしていることだ。パンフレットに「修理前」、「修理後」として写真が載っているように、保存と修理を商売にしているのは、やはりそれなりのバックグラウンドがあるからだろう。日本とはかなり違う点である。ワークショップというのは、従ってモデルの製作よりも修理を主体にしているらしく、招じ入れられたショップには修理中のモデルが2つほど置かれていた。

 

このギャラリーの方針がアメリカのすべてとは思わないが、展示品やパンフレットにはかなり特徴がある。帆船模型に関しては、大部分が小型船、それもアメリカの船が多い。ということは少し大きい船は、かなりの部分クリッパータイプであり、われわれの展覧会で見られる昔の大型船は「アンティック・モデル」として別のカテゴリーにしている。もちろんアンティックといえば、当然18世紀頃の本物を指していて、いま作ったものではない。ウォールさんがコレクターといわれる所以だ。

 

大型船をモデラーが作らないのではなく、おそらく販売としては高すぎるのではなかろうか。ちょっと値段を覗いてみると、ブリッグや2本マストのスクーナークラスで$4,200から$6,200、1/300モデルのスループやスクーナーで$3,500から$4,500、1/96モデルのHMSチェロキーが$8,200と、帆船模型のこのクラスではまァ高くても1万ドルを超えることはあまりないと考えていいだろう。

 

一方、近代船を参考にしてみると、多くはジオラマ形式で、何らかの物語性を持っていて、例えば波の形が面白かったり、ジャンクと行き違っていたり、損傷を蒙った戦闘艦だったりする。これらが大体$3,000から$7,000と帆船模型と拮抗する。また、ずっと安いのがハーフハル、船殻を半分にして貼りつけてあるもので、$450から$700である。

 

これがアンティッククラスになると安いもので$14,000、高いのは$38,000もする。骨董品だから当然なのだろうが、質は別として1万ドル以下というのがどうもアメリカ人の買い頃の値段ではなかろうか。それと、必ずしも買い手は船の容姿だけが問題ではなく、近代船のモデルの様に躍動感を求めるらしい。リストに、先ずモデラーの名前を大書する習慣と合わせて、アメリカのモデル販売の特徴と見た。

 

「どうですか、日本からも出して見ませんか。私のところで値段を付けてあげますよ。」
ウォールさんの誘いに乗るメンバーがいるだろうか。

 

2001.7.13.


ワシントン・ネイビーヤード

初冬でもワシントンDCは寒い。1週間の国際会議が終わって、今日は土曜日、やっと開放される日だ。幸い、冬の朝にさんさんと陽がさして出かけるには気持ちがいい。前の晩の約束で、政府代表団の一員であるHさんと午後はホロコースト記念館に付き合う代わりに、午前中はネイビーヤードの海事博物館へ一緒に行くことになっている。


昨今のテロ時代と違い、1995年のDCはまことにのんびりしたもので、テロの目標となった国防総省のすぐ南にあるペンタゴンシティーのショッピングセンターは人出で大変にぎわっていた。この地の地下鉄は安全だし、きれいでもあるので、どこへ行くにも利用できる。今朝も宿の近くのデュポン・サークルから潜ってチャイナタウンでグリーンラインに乗り換えれば、4つ目がネイビーヤード、20分ほどで着く。

 

地上に出ると、休日のせいかガランとした街には時折車が通るばかりで人影も見えない。右手に長々と連なるコンクリート塀の切れ目にある門で聞くともっとずっと先だという。延々15分も歩かされただろうか、やっとネイビーヤードと書かれた入り口が見つかった。何だか愛想がなくて期待外れという気持ちだったが、アメリカ人は面白い。入り口を入るとすぐ、この寒いのにTシャツ1枚の見るからに太った中年の男性とばったり出会った。

 

「これからミューゼアムに行くんかい。オーケー、オーケー、俺が案内してあげるよ。探すのがちょっと難しいからな。」
一人で合点し、こちらが何も言わないうちに、にぎやかに案内してくれた。どうやら常連らしく、ほらあの角を曲がれば良いんだと指差すと、さっさと戻って行く。こちらはありがとうというのがやっとだったが・・

 

この博物館は、正式にはネイビー・ミューゼアム、海軍博物館という。倉庫のような縦長の建物だが、資料によると元海軍工廠の大砲製作所の一部だそうな。USSコンスティテューション砲甲板の一部の実物模型があったり、第2次大戦の展示物があったり、天井にはP51がぶら下がっていたりで、まあ普通の海事博物館だが、父親に連れられた男の子の数が多いこと、その子供が、エリコン機関砲を喜んで操作しているなど、「海軍」のある国の雰囲気はわが国とかなり違う。

 

ぼくのお目当ては、どちらかというと屋外の記念艦にある。司令塔だけのUボートの前を通って行くとアナコスティア川に面した岸壁にUSSバリーが係留されている。DD-933フォーレスト・シャーマン級の駆逐艦だ。長さはほぼ130メートルあるというが、幅は狭く、第2次大戦で使われたのが分かるような磨耗があちこちに見える。がらんとした艦尾タラップから上がって見学しているわれわれのところに、突然水兵さんがやってきた。


「% # $ @  & *X・・・sir??」
少年のような水兵さんが、顔を真っ赤にして何やら早口で言うのだが、こちらにはさっぱり分からない。何か悪いことでもしたかと、二人で顔を見合わせたが、あまり思い付くこともない。なだめすかしてやっと分かったのは、どうやらもう一組見学者がいて、士官が説明しているからそれに合流しないか、ということだった。

 

喜んで合流すると、ブリッジにいたその一組はアメリカ人のご夫婦で、説明役の「オフィサー」は、どうやらこの艦に何らかの関係がある人らしく、少し年配の、おそろしく詳しい人だった。ブリッジからわれわれがウロウロしているのが見えたのだろう。ついでに説明してやれ、と水兵さんを派遣したものらしい。

 

どうも戦闘指揮系統が専門のようで、身振り手振りを交えて、兵装を指し、伝声管を指しで奮闘しているのだが、お生憎さま、こちらは言っていることがちっとも分からない。が、夫婦へ懇切丁寧に説明していることはわかる。

 

われわれは恐れ入って、後からぞろぞろと付いていったのだが、通信室におそらく暗号解読器だろう、麗々しく大きな真鍮板に「トップ・シークレット」と書いてあるのが目に付いた。55年前だったら、見ただけで吊るし首だろうな、とちょっとおかしかった。

 

「ご親切な説明、大変ありがとうございました。日本人として、アメリカ海軍の最高機密まで見せていただいたことを喜んでおります」
丁寧にお礼を言って退艦した頃には、お腹がグウグウ鳴っていた。

 

(後で聞いたことだが、このあたりはあまり安全な場所ではないらしい。DCは国会議事堂を中心にして西側は安全だが、東側は所によってあまり安全ではないという。ネイビーヤードはそう言えば東南地区になる。アフリカ系住民の多い所だそうで、もし見学に行くなら、少し用心した方がいいかもしれない。)

                                         2001.10.12.



 42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro
42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro