福田正彦 エッセイ集-3

船のにおい

    ジャギュアー  B-14  
    海王丸パーク  B-15  
    ぱしふぃっく・びーなす  B-16  
    単気筒焼玉エンジン  B-17  
    一等巡洋艦高雄  B-18  
    カシス  B-19  
    もう1つのカシス  B-20  
    八甲田丸  B-21  
    箱館湾の海戦  B-22  
    巡視船いず  B-23  
    船のにおい  B-24  

 



ジャギュアー

Jaguar

1976年9月、サウサンプトン港。 この国はからりと晴れるということがないみたいで、鉛色をした空から、9月というのに薄いコートを通して寒ささえ感じるほどの風が吹く。何回か片手では数え切れないほど職業を変えた中で、唯一港湾関係の仕事をしていた時期があって、その時に港湾視察団の一員としてぼくはこの港に立ったのである。


港町というのは、何となく郷愁を感じる。ロンドンからバスで市内に入ったのだが、港の近くは、船員の宿だろうか二階半建ての家並みが続く。「半」というのは屋根裏部屋があるからで、急傾斜の屋根の軒指しに半分ほどの高さの窓がチョンと付いているから暗くはないのだろう。ご多分に漏れず屋根には四角い煙突がわずかに煙を出している。


くすんだような町並みの中で、真っ赤に壁を塗った家が見える。ぶらぶら近づくと、薄いグレーの家の一階だけ真っ赤にした壁には "DAVIS’S HOTEL" と看板が出ている。さすがに窓枠が白く塗られて瀟洒に見えるのは、やはりイギリスだ。


招じ入れられたサウサンプトン港湾局の建物から港がよく見えるが、先ずは見て回りましょうと、広い岸壁をぞろぞろと歩く。白塗りの中型客船はワイト島へ行くフェリーで、案内の人の話ではかなり頻繁に出ているようだ。この港はワイト島のちょうど真正面にあって、少し陸地よりの、河口港といった感じである。フェリー埠頭はレンガ造りの倉庫のある一角で、いかにも古い歴史を感じさせる雰囲気がある。


ぐるりとそこを回ると、広い岸壁が広がって、無数の乗用車が一面に並んでいる。みんなが集まるのを待って、やおら案内の人はどうぞあれを見て下さい、という。青あり、赤あり、白あり多彩な車の群れの上を両手で泳ぐようにしながら、あれはおたくの国から来ているダットサンだというのだ。そして、反対側にくるりと身体を回して、数列に並んでいる乗用車を指しながら、
「わがジャギュアーの輸出は、あれほどなのですよ。」
と大げさに天を仰いで見せた。


彼氏の嘆きも分かるけれども、ぼくは、そうかやはり連中はジャギュアーというんだと、妙な所で感心した。いつだったか、伊丹十三の随筆で、イギリス人はジャガーといわずにジャギュアーというのだと書いてあって、そんなもんかと覚えていたのだ。ついでに言えば、その随筆にPlease tell me the way to…という言い方があると出ていて、いまだに道を聞くときに便利にしている。


港湾局のレセプションは、その事務所の二階で行われたが、他と違ってテーブルに着いての会食だった。まあ、音に聞こえたイギリス料理だから、およそ華やかさには欠けていたが、主客隣り合わせてのお喋りがご馳走という、難行苦行を強いられた。右隣のおっさんは、かなり年配で外国航路の一等航海士をしていたそうな。 髪の毛を除けば、縦でも横でも、しわの数でも26年前のぼくが太刀打ちできる相手ではなかったが、ふと思いついて「ぼくはフォレスターのホーンブロア・シリーズを全部読んだよ」と言ったら目を丸くした。


「おーい、みんな。このジェントルマンはキャプテン・ホーンブロアを読んだそうだぜ」
と言ったんだろう、はっきり分かったのはそのジェントルマンがぼくだということだけだった。
さあそれから座が急に賑やかになって、英語の能力を見破られたぼくはそっちのけ、ひとしきりホーンブロア談義が頭の上を飛び交ったようだった。血は争えない。彼らは正にイギリス人だ。


お土産にもらった港湾局特製のブルーの灰皿に金で書かれた模様が「皆さん何だと思いますか」とわれわれににっこり笑いかけた案内氏の質問に、「そりゃボラードさ」と答えたのが唯一ぼくの面目を施した場面だった。

 

2002.1.22.


海王丸パーク

2月の末にしてはそれほど寒くない。案に相違して富山近郊はまったく雪もなくて、乗換駅の越後湯沢の大雪がうそのようだ。明日からの仕事の前泊ということで、例によって昼過ぎにこの地に着いたのは、海王丸に会いたいという魂胆のせいだ。 地図で見ると、海王丸は富山市ではなくて西隣の新湊市にある新富山港に係留されている。かなりの距離で、夕方の会合に間に合わせるにはちょっと遠いかなぁ、と思案する。


それでも、バスだって1時間ちょっとで行けますよ、とフロントのお兄さんに押されて駅前にあるバス停まで行ってみた。
「15番の新港東に乗ンなさって・・・終点のフェリーで・・・電車で一駅・・・」
案内所のおばさんは、ちっちゃな小屋の中でぬくぬくと温まりながら、プラ板越しに話すものだから、さっぱり要領を得ない。何やら複雑な道行になりそうだが、横浜の日本丸と海王丸は姉妹だし、ぼくと3人同じ1930年生まれでもある。折角のチャンス、行かねばなるまいとバスに乗り込んだ。

 

各駅停車の午後のバスは、地域のご婦人方の買い物バスでもあるらしい。木曜日だというのに、高校生の下校時刻でもあるのか思いの他に混雑する。乗り降りも激しいが、学生も含めて降りる時にほとんどの人達が例外なくありがとう、と運転手さんに丁寧に挨拶する。その割りに当の若い運転手の無愛想なのがちょっと可笑しい。

 

富山湾に沿って走るころになるとさすがに空いて、終点の新湊東では、それまでずっと眠りこけていた女子高生とぼくの二人だけになった。降り立つと、ぽつんと小さな小屋があるだけで、他に何もない。
おそるおそる小屋を通り抜けて岸壁に出ると、いたいた、豆のように小さいフェリーが渡り板を下ろしている。さぁ乗って下さいといわれて板を渡るとすぐ出航。巾着形をした港の首に当たる一番狭い部分をフェリーが往復しているのだ。大型船も係留され、奥には倉庫群が見える。鉛色のように冷たく、しかし心地よい風に吹かれて5,6分ほどもすると対岸に着くが、市だか県だかの運行で乗船料はただ。短い航海に何だかとても得をしたような気になる。

 

越の潟、というのが着いたところで、加越能鉄道・万葉線という物々しい名前の鉄道終点駅である。大分くたびれた1両の車両がぽつんと待っている。ははぁ、これが“電車で一駅”かと、やっと納得がいった。何せ運転手さん1人で乗客はぼくだけ。

 

 「横浜からかね。この鉄道も4月から第3セクターになって万葉線というんですがな。どうなることやら。ほら右手に見えるのが海王丸ですけ。帰りは高岡に出た方が早はようござんすよ。」

と、こんな言葉使いではなかったと思うのだが、ぼくの印象はこんな感じだ。200円を払い、お礼をいって降りると見渡す限りの広い土地がよく整備されて、 その一番奥に海王丸がいる。巾着型の港口の外、外洋に面した西側の岸壁がそうだ。延々と歩いて行くこのあたりは外用航路船停泊「予定地」となっていて、設 備を整えている最中だが、いつ「予定」が取れるのか分からない。

 

それでも広い公園を横切って近くによると海王丸は実によく整備されている。付近は横浜より余ほど広いし、港も広々としている。唯一の違いは、公園はもちろん、付近には人っ子一人、船一隻としていないことだ。

 

何となく不安だったが、タラップの入口へ行くとロープが張られて3月15日までは修理中でお休みだと。それはないよ、誰もそんなこといってくれなかった。わ ざわざ横浜くんだりから来たのに、ハイそうですかと引き返すなんてできない。ただ1人、甲板に立って偉そうにしているオジさんに縷縷頼んでせめて甲板に上 げてほしいと懇願する。しょうがねぇな、と招き入れてくれたが・・・
「すいませんねぇキャプテン、お忙しいんでしょ」
「いや、おれは警備の人間だが・・・」
「よく手入れしてありますねぇ。甲板も張り替えたんですって?」
「いやぁ、ウエルデッキだけよ。こっちへ来て見てみな。」
とまあ、友好親善関係が成立して、ここが2代目と違うとか、大きな都市のくせに大阪がこの船を手放したのはどうもねぇとか、ほんとは新湊市としても大変ら しいとか、揚句にバスは先ず来ないし、タクシーときたらこの時期つかまる筈はないから、帰りはぜひ電車にしな、と親切に教えてくれた。

 

森閑とした港に一人、凛として停泊している海王丸に別れを告げて、テクテクと万葉線の海王丸駅まで歩く。やがて来た電車で高岡まで40分の旅を楽しんだが、 文字通り市街地の路面電車となる後半までは、港沿いのちょっとしたローラーコースター並みの路線で、もし海王丸を見に行く機会があったら、帰りはぜひ第3 セクター万葉線を利用することをお薦めする。

 

2002.6.26.

 


ぱしふぃっく・びーなす

多少デスティネーションの魅力に欠ける感がありますが・・・という条件付きで、ザ・ロープ会員の東さんからメールが入ったのは5月20日のことだ。2泊3日の三陸海岸・大船渡クルーズのお誘いで、とんでもない格安料金。オプションで平泉は中尊寺の見学もあり、学生時代に行ったことのあるあの森閑とした寺が四十数年を経てどんなに変わっているかも見てみたい。ぼく達は二つ返事で参加することにした。


6月はサッカー・ワールドカップ真っ最中の月だ。同時に横浜港大桟橋の新装なってオープンした月でもある。14日の朝、少し早めに着いて驚いた。大桟橋のイメージがまったく違う。木製のデッキが延々と続き、いつの間にやら送迎デッキから屋上のオープンデッキへ、広々とした多目的広場に入れる。


2階のデスクで登録を終わってウロウロしていたら、当の東さんにばったり出会った。
「いやぁ、今度ばかりは遊びで乗りたかったんですがね、やっぱり仕事が入って、昨日から“ひばり”のワンナイト・クルーズに付き合ったんですよ。」
例によって大荷物を肩からぶら下げ、カメラを手に持って東さんはニコニコしている。その後ろには奥方がそっと立っている。若き日の東さんがどうやって獲得したか不思議だが、たおやかで優雅な美人だ。


日本クルーズ客船26,518トンの客船、“ぱしふぃっく・びーなす”がどんよりした空の下、大桟橋を離れてベイブリッジをくぐる頃には、シャンペン片手に若い女性スタッフの音頭で出航のセレモニー。露天のプロムナードデッキで手を叩き、身を反らせて足踏み鳴らした、といいたいところだが、片手にシャンペングラス、BMI-25の身体でそれは無理。それにぼくだってちょっと恥ずかしい。

 

本船は5階から10階までが客用の居住区で、7階が食堂やホール、ショッピングエリアで客室はない。8階の周りがプロムナードデッキで、右舷救命ブイのある後ろがぼく達の部屋だ。非常時の乗艇が5号艇であることを確認し、やっぱり四角い窓の方が気持ちいいねぇ、とケチなことをいってテレビをいじっていると、12チャネルで航跡図が出てきた。すでに房総半島を回って外洋へ出ている。穏やかだが、微かなローリングを感じるはずだ。

 

帰航時のことだが、ブリッジが開放された。大型客船特有の雰囲気を持つブリッジは、あまり興味を持つ人が無かったせいか思ったより空いていて、ゆっくり船長と話をすることが出来た。

 

「乗客の安全は当然ですが、何といっても定時の到着が大事でしてね。本船の巡航速度は20ノットぐらいですが、なるべく速く目的地に近づいておいて、それ から時間の調整をするのが普通ですねぇ。到着港での乗り継ぎなどがありますから。その意味で本船はお客様にご迷惑をお掛けしたことは一度もありません」
「スタビライザーを使えば当然抵抗が大きくなります。バンカーオイルにも影響がないとはいえません。もちろん必要な時は使いますが」


どうりで、帰りの夜中はかなり速度を出したようで、ディーゼルの音が普段より少し大きいようだった。穏やかな夜だったから、フィン・スタビライザーも使っていなかったのだろう。朝目覚めて下を見たときはスタビライザーを張っていた。“必要な時”だったんだな。


「タグを要請するかどうかは私が決めます。大船渡港は狭いですからね。念のために使いました」
「港の出口へ曲がるところまでタグが先行したのは、入港船が無いかどうかの確認をしてもらうためです。現に漁船が入港中で、本船の左舷側に避けるように通信してもらいました」


それは、ブリッジの下でぼくもしっかり見ていた。おそろしく狭い堤防の入り口を、左舷側のポストぎりぎりに小さな漁船が通り、帆立貝の養殖筏の中へ入って 行くのと入れ違いに、本船はその狭いポストの間を抜けて外洋に出たのだ。6月だというのに、夕間暮れの風が身を切るように冷たかった。

 

6月15日朝7時、本船は霞のために墨絵の様に煙った美しい港に入り、大船渡港客船用埠頭に着岸した。なんと驚いたことに、埠頭には赤いユニフォームを着た 少女達のブラスバンドが整列し、その横には市役所中が引っ越してきたのではないかと思うほどの背広姿のおじさんや若者達が群がっている。舷側の中に折り畳 んで格納されていたタラップが下ろされると、ファンファーレが湧き上がり、船長はじめ高級士官を前に、市長の挨拶からセレモニーが始まった。


大船渡市は客船誘致に大変熱心のようだ。その日の夕刻、本船の出航直前までサンマの丸焼きやらホタテの貝殻焼きと、まる一日中埠頭の中でサービスにこれ努 めてくれた。お土産の売上という余禄はあるものの、東北の地方都市の痛々しいまでのサービスだ。お客さん専用と柵を設けてあるのが、当然とはいえ何となく 気になるが、それでもブラスバンドの少女達が、大役を終えて衣装と楽器をライトバンに入れ、普通の少女に戻ってそこら中を飛び跳ねているのを見て、ほっと したのもまた事実だ。

 

 

2002.7.21.

 


単気筒焼玉エンジン

春近いといっても青森港は寒い。ましてロクな洋服も着ていない身にしてみれば寒さに震えてもいいところだが、とてもそんなことに気を使っていられない。函館へ行く船を捜さないことには、入学式に間に合わない。肩に担いだ柳行李をよいしょとゆすりなおして、もう一と回りと岸壁を歩き出した。昭和22年3月末、戦争が終わって、まだ2年もたっていないころのことだ。


5年間の中学生活(もちろん旧制だ)で勉強をサボったおかげで、北海道くんだりまで都落ちをする羽目になって、それでも遠くへ行けるのは嬉しいと喜び勇んだものの、入学証明書があってさえ、おいそれと汽車の切符が手に入らない。つてを頼って紹介してもらった交通公社の人は、アメリカにいたことのある白髪交じりの紳士で、道を横切る時さえごく自然に“テイクケアー”とぼくの肩を抱いてくれるような人だったが、気の毒そうにいったものだ。
「悪いけど、青森までしか切符が取れないんだよ。青函連絡船で大勢待ちがあるらしくて、連絡船の切符は発売がなくてね。」
そういう次第で、家を出てから三日目の朝(並ぶのに1日、汽車で1日だから)、ぼくは一人で青森港にいたのだ。

 

港は忙しい。ほとんどが漁船のようで、相手にしてもくれないし漁船に頼むつもりもない。付近でただ1隻、かなり乾舷の高い、スパンカーを持った丸っこい船があった。ねじり鉢巻で、長靴をはいた不機嫌そうなおじさんがどうも船長らしい。夕方に函館へ出航するから乗せていってやってもいいという。10円出せばね、というのが条件だ。

 

10円! インフレの激しい2年後、実習という名のアルバイトのとき、石巻から上野までの汽車賃が24円だったから、当時10円出すとぼくの懐は極端にさみしくなる。でも背に腹は替えられない。急に重くなった柳行李を担ぎ上げてぼくは踏み板を渡った。


津軽海峡に出るまでは「見つかるといけねぇから」甲板に出るな、というのが船長さんのお達しで、ぼくは石炭を運ぶこの100トンの機帆船のエンジンルームに入りこんだ。吹き抜けのような天井の高いこの部屋には、二抱えもありそうな太い鉄の筒が一本と、ぼくの背よりも高い大きなフライホイールが収まっている。かたわらに小さな炉があって、十三、四だろうか、色の黒い狐のような顔をした少年がバッタのように両足を立ててへたり込み、火の番をしている。薪の炎が少年の顔とランニングシャツから出ている細い両腕を照らしているが、彼はチラともこちらを見ようとしない。


「ご飯です」うとうとしていたぼくは、そういわれてビックリ仰天した。米を出さずに一飯の恩義にあずかれる時代ではないのだ。おかずが何だったかちっとも覚えていないが、ふんどし付きの麦が一杯入ったご飯が、なんともありがたかったことだけはよく覚えている。誰であろうと、船では乗っている人に食事を出すのだ。

 

やがて、乗組員の一人が、エンジンの上によじ登ってトーチランプで焼玉を炙り始めた。気がつくと、あの大きな筒は単気筒の焼玉エンジンで、最初は文字通り焼玉を焼くのである。焼玉とは気筒の上にある鉄の塊で、ぼうぼうとトーチランプの炎を吹きつけても中々焼けない。そのうち、いくらか色が変わり、ついには薄い赤色になった。合図と共に二人掛りでフライホイールが回されると、突然、ズッッボォーンという腹に響く音がして、エンジンが掛かった。

 

「もういいよ」といわれて甲板に出てみると陽はとっくに暮れて、星空から身を切るような風が吹き降ろしている。周辺の陸地には電灯も見えず、ただただ暗闇だ。小さなブリッジに上ると、船長はそろそろ津軽半島の先端を過ぎる頃だという。道も半ばか。コンパスのほのかな光に照らされて見ると、傍らのテレグラフはエンジン・フルを示している。

 

「何ノット出ているんですか?」
「さぁ、5ノットか6ノットかな」
「函館まで何時間掛かるんでしょう」
「青森から12時間だから、明日の朝にはちゃんとつくよ」


12時間か。青函連絡船なら6時間半でつく(トンネルが出来るちょっと前は4時間半だった)。それでもこの船に乗っていれば、入学式には十分間に合う。生まれてから行ったことのない函館とは一体どんなところだろう。どんな仲間と会えるんだろう。そんなことを考えていると、ぼくは何だか急に“笈を背負って”旅をしているような気分になってきたからおかしい。

 

翌朝6時、朝靄の中を機帆船は倉庫群の前の岸壁に横付けされた。早朝なのに付近はにぎわっていて、人の往来が多い。柳行李を担いで表通りに出ると、もう腐れかかった根雪が黒くなっているのを踏み砕いて馬車が通る。糞を受ける布のバケツを尻尾の根元に括り付け、首に巻いた輪にはいくつかの鈴がついている。馬が引くゴムタイヤの大きな大八車といった風情である。空の馬力を呼びとめて、学校の寮まで乗せていってくれないかと頼むと、二つ返事でいいよという。しかもタダでいいと。行李を荷台に放り上げ、その一番後ろに腰掛けて足をブラブラさせ、シャン・シャン・シャンという鈴の音を聞きながら、さして来た陽を仰ぐ。これが函館か!

 

2002.8.18.


一等巡洋艦「高雄」

去年のことだが、さる会合で昔の軍艦のことが話題になった。なったぐらいだから当然じいさん連の会合である。もっとも艦に乗って戦闘した経験があるほどの年寄りではないから、ぼくが重巡高雄に乗ったことがあるといったら、周囲が騒然となった。ほんとかよ、というわけだ。いや、本当の話だ。


詳しく覚えてはいないが、中学校の先輩の紹介という説明だったから、おそらくそれほど戦局が切迫していない昭和17年ごろだと思う。そうならぼくは中学1年生で、入学して間もない4月18日には、かの有名なジェイムズ・ドーリットル中佐のB-25双発爆撃機による最初の東京空襲のあった年だ。


余談になるけれども、あの日のことは今でも鮮明に覚えている。ちょうど土曜日で、われわれは「擬戦」といっていたが、小さな布袋に石灰を詰めて弾丸とし、これを投げて相手の上半身にあたればその相手は“戦死”で競技から外れる。こうして相手の陣地にある軍旗を奪って自軍に持ちかえれば勝ちになる。当時のことだから軍隊様式で作戦も立て、それなりに勇壮で面白い競技だった。

 

この模擬戦の午前の部が終わり、校庭で弁当を食べている時だ。突然ドンドンと音がして晴れ渡った空に丸い煙がいくつか広がった。飛行機の影も見える。思わず立ち上がって上空を見上げたわれわれが、何だすごい演習じゃないかと口々に騒ぎ始めた時、空襲警報のサイレンが鳴り渡った。当時は分からなかったが、記録によれば死者12人、負傷351人を出し、改装中の潜水母艦大鯨が損傷した空襲がこれだった。

 

まあ、それはともかく、われわれのクラスが横須賀に集合したのは初夏、いくらか暑くなり始めた頃だったろう。それでなくとも軍艦が好きで、父親に買ってもらった海軍年鑑を飽かずに眺めて、そのトン数やら兵装やらをそらんじるぐらいになっていたから、軍艦、それもスマートな重巡洋艦に乗れるとあって、ぼくは天にも昇る気持ちだった。

 

タラップから上がると、重巡高雄はものすごく大きい。ゴーだか、ビーンだかいろいろの音がして、ペンキの匂いと共にこの艦が活きているように思える。わが先輩の海軍士官が、
「諸君、よく来た。本艦は・・」
と説明してくれてから、何人かずつの集団に分かれ、それぞれに若い士官がついて案内してもらった。もちろん艦橋や兵装関係には入れなかったが、ほらここから覗いてごらん、といわれて狭い階段の上から見ると、幾重にも下が見えていかにも複雑な構造がうかがえる。

 

甲板に出て、誰かが手すりに寄りかかったとたん、「待てー!」と鋭い声がかかった。海軍士官たるもの何かに寄りかかってはいかん、特に舷側の手すりは取り外せるようになっているから危険なんだと、くだんの士官にいわれて、みんな海軍士官ではないけれどもぴんと背筋を伸ばす。ふと見ると、その舷側をひょいと跨いで、舷側から直角に延びているブームをポンポンと歩いている士官がいる。何だありゃ、と見るうちにその士官はブーム先端から下がっているロープをするすると伝って、折から回航されてきたランチへぽんと飛び乗った。いやー、すごいなぁ。ぼくが海軍士官になったらきっとやってやるぞと、堅く決心したもんだ。

 

お土産をあげるから後甲板に集合、と嬉しい話しでぞろぞろと集まったとき、見てごらん、と指差された。こちらに艦尾を向けて大きな艦が停泊している。
「あれが戦艦の陸奥だよ」
あれが陸奥かぁ、高雄も大きいけれども目の前にある灰色の塊はとてつもなく大きい。艦尾から見ると前方の艦橋が天に聳えるようだ。何といってもお相撲さんがうんと両足を踏ん張ったように、下重りという感じがいかにも戦艦を感じさせる。軍国少年だったぼくは、更に感激を新たにした。

 

重巡高雄のお土産は、落雁のような小さなお菓子が一杯詰まった紙の袋だった。だからというわけではもちろんないけれども、ぼくは今もって「妙高」よりも「最上」よりも、日本の重巡洋艦は「高雄」がご贔屓なのである。

 

2003.1.14.


カシス

ホレイショ・ホーンブロワー艦長は、平和時の半給の海尉という苦節の時を経て“本物の”海尉艦長としてスループ艦ホットスパーに乗り組んだとき、自分の好みの食料を調達するほど金の余裕はなかった。


『メイスン夫人が卵を六ダース・・と、塩をきかせたバターを六ポンド買ってきてくれた。あと、砂糖一かたまりと幾瓶かのジャムで、金が無くなってしまった。』(『 』は菊地光訳)というわけだ。下宿屋の女将メイスン夫人の娘マリアと結婚したばかりとあってはそれもやむを得ないことだったのだろうが、そもそも何で「艦長の個人的食糧」を調達しなければならないのか不思議に思う向きもあるかもしれない。

 

軍隊というところは、昔から衣・食・住はただと相場が決まっている。おまけに給料までくれる。その代わり、軍人は自らの命を賭けることになるのだ。しかし、軍人には2種類あって、士官あるいは将校といわれる階級とそれ以外の、いってみれば兵隊という階級である。

 

今でこそあまりいわなくなったが、戦後アメリカの兵隊さんをGIといった。GIとはガバメント・イッシュー、つまり官給品という意味で、衣食住すべて軍隊から支給される階級、兵隊さんを意味したのである。士官は、規則の許す限り、衣服や食料に自由が認められたようで、それに対しては有料だった。帆船時代、有力な艦長達がボートに特別な装いを凝らし、クルーに派手なシャツを着せたというような伝統が尾を引いているのだろう。


なけなしの卵から2つを使ってフライドエッグスを作らせたホーンブロワーは、最初の2個が腐っていて、あとの2個も変な匂いがするのを知った。『いたみかけている卵を買ってくるというのは、いかにもメイスン夫人らしいやり方である。ホーンブロワーは・・卵の不満はジャムで補えばいい、と思った』のだが、『・・さあ、いよいよジャムだ。黒すぐり!よりによってこんなものを!』彼は憤激のあまり呪いの言葉を吐いて当番兵を震えあがらせる。『ホーンブロワーはジャムが好きであったが、あらゆる種類の中で、黒すぐりをもっとも好まなかった。ないよりはまし、ともいえないくらいであった』


黒すぐり、英名ブラックカラント、仏名カシス。ぼくはあらゆるベリー類の中でこのカシスが一番好きだ。あの好もしい独特の香りと、輝くような濃い赤紫のカシス の味を教えてくれたのは、1965年のパリにいたW子さんである。

生まれて始めての海外旅行なのに、3週間もの見本市でカルピスを飲ませるというむちゃく ちゃな計画だったが、パリ日本館の館長羽田明先生は、預かっていた留学生の子さんを派遣してくださった。彼女はわがブースをやりくりしてくれ、その上、 会期が終わってから個人的に街を案内して、いかにもフランス的なカシスの味を紹介してくれた。


当時の日本にカシスはリキュールの形でしかなかった。大事に持ちかえった1ビンの濃縮ジュースを薄めてちびちびと飲んでも、たちまちなくなってさみしい思 いをしたものである。最近になってカシスの濃縮ジュースが輸入されて、氷を浮かべた一杯が夏の楽しみの1つになっているし、カシスのジャムと見たら買いた くなるぼくを引き留めるのがかみさんの役割になっている。


それはともかく、帆船時代の有力な提督や士官たちの食卓はどうだっただろう。戦列艦トナント号ペリュー艦長主催の晩餐会の様子は圧巻である。

 

『・・巨大な 銀の皿おおいがサッと取り払われると、見事なパイが現れた。パイ皮が城の形に焼き上げられ、その小塔に紙のイギリス国旗が立っている』。その中味は固い ビーフをくたくたになるまで煮たものにキドニーを加えたものだ。見事に太らせた鶏は、海軍のビスケットに済む穀ゾウムシを集めて餌にしたのがその秘訣だ し、ホーンブロワーが何気なく取ったポークのガランティンに入っている黒い色の薄片は、フランス松露と書いてあるがトリュフだろう。大小の干しブドウと二 色のジェリイで作られたプディングのゼラチンを作るのに『例の牛の足を煮たり漉したり、大変な手間がかけられているのに違いない。』

 

こうして、海尉艦長になり立てのホーンブロワーは、いつの間にか『万が一にもポストキャプテンになり(拿捕)賞金で豊な身分になったら、艦長室の貯蔵食糧に大いに関心を払わなければならないな、と考えていた』ということになったのである。

 

フ ランスのブレスト軍港の監視という任務に就いて40日、さすがのホーンブロワーにも変化が訪れる時がきた。

 

これが黒すぐりのジャムの最後のつぼである。 ホーンブロワーはつぼの中身がしだいに減ってゆくのを残念そうに見ながら、強いられた結果とはいえ、自分がいつの間にか黒すぐりジャムの味が好きになって いるのを認めた・・・

 

継続は力、ということか。それでもあのホーンブロワーが、と何となくおかしい。ホーンブロワー・シリーズを読む、いささか邪道な方法である。

 

 

2003.6.28.


もうひとつのカシス

ハリッジ、と読むのだと知ったのはこの港に着いてからだ。英語、特に英国の地名はかなりややっこしい。案内書のスペルを見れば、どうやったって「ハーウィッチ」としか読めない。そう読めばいいのに、イギリス人は何でそんな厄介なことをするんだろう。

 

1976年9月の半ば、港湾視察団の一員として(事情は「ジャギュア」に書いてある)フェリーの出るこの港に着いたときには、単にオランダへ渡るための港で何の感慨も湧かなかった。しかし、何年か後にダグラス・リーマンの『燃える魚雷艇』(パシフィカ社、海洋冒険小説シリーズ18)に出会い、第2次世界大戦の英仏海峡で、若い海軍軍人達が僅か28mのマホガニー合板の魚雷艇を駆ってドイツEボートと死闘を繰り広げた、その母港がこのハリッジだったことを知った。あの港が、と粛然たる思いをしたものだ。もう少しよく見ておくんだったという思いが強い。


それはともかく、われわれ一行は1万㌧近くもありそうなフェリーで、ホーク・フォン・ホランド港を目指す。アムステルダムのユーロポート近くにある「オランダの嘴」という奇妙な名の港だ。ちょうど昼時で、穏やかな海を眺めながらゆっくりとった食事のデザートに出たアイスクリームに、カシスの濃厚なソースがたっぷりかかっていて、甘酸っぱいあの独特の香りを口にしたとたん、ぼくは11年前のパリを思い出した。


1965年、生まれて初めての海外旅行、それも研究所の友人と二人連れの出張で、パリの見本市でカルピスを飲ませようというまるでむちゃくちゃな旅だったが、片言のフランス語をしゃべる友人は研究所巡りに忙しいと称してまるで手伝ってくれず、孤軍奮闘を強いられたものだ。その時助けて下さったのが当時メゾン・ド・ジャポン(日本館)の館長で京都大学の教授でもある羽田明先生である。

 

時は6月でヨーロッパの一番いい季節だが、山盛りの黒いさくらんぼうの軸をつまみ、大鉢に入れた水の中でちょろちょろとかき回して洗いながら食べるのが ヨーロッパ流だと先生がおっしゃる。そのさくらんぼうを運んできたのが先生のいう「私のところに預かっているW子さん」という留学生で、彼女と他に2人の 男子留学生を手伝いにつけて頂いた。


大汗をかいた3週間の会期が終り、かみさんのたっての願いだったほうろう引きの鍋を買う手伝いもしてもらい、感謝を込めてW子さんが“ちょっと気に入って いる”というビストロで食事をすることになった。彼女は長めのおかっぱで目のパッチリした知的な人で、その当時にフランス留学生だったばかりか、純粋の京 女という貴種でもある。

 

20 分ほどもかけてギャルソンと献立のやり取りをした揚句、教えてくれたのがカシスのおいしさだった。ぼくはわざわざカシスの濃縮ジュースのびんを持って帰っ たし、それが無くなると当時は輸入品がなくて、泣く泣くカシスのリキュールで我慢したものだ。今では時々輸入されていて、夏の暑い日にたっぷり氷を入れた カシスのかおりを楽しむことができる。ベリー類のジュースの中で、カシスは特別の地位を占めているのだ。


黒すぐり、英名ブラックカーラント、フランス名カシス。おいしいのになぁ。カシス党のぼくとしては、ホーンブロアーが最後にはこれが好きになるというところ で、ほれ見ろという感じがしないでもないが、著者のフォレスターはいったいカシスが好きだったのか嫌いだったのか、多分嫌いだったんだろうな、と今になっ ても分からないことに悩んだりしている。

 

かの子さんは帰国後、結婚して1男2女の母となり、ぼくは今立派に成長したその子供達とも交流がある。母親の血を受け継いだのだろうか、それぞれのかなりユニークな生き様をみながら、これもカシスの縁かと思う。

 

 

2003.6.28.

 


箱館湾の海戦

明治2年というのは1869年に当たる。高々135年前に過ぎないけれども、わが日本で大きな海戦があったことをわれわれはほとんど知らない。日本海海戦は有名だが、その僅か36年前に帆走主体の蒸気艦が戦ったのだ。それが箱館湾の海戦である。


ぼくは学生時代を函館で過ごした。すでに街の名前は箱館ではなくてとうに函館になっていたが、終戦直後といっていい昭和23年ごろはまだ馬力、つまり馬に曳かせた荷馬車の時代だった。昨年9月、じっくりと海から55年振りの街を見たら、その変貌振りは驚くべきものがあった。入学当初に機帆船で上陸した煉瓦倉庫(詳しいことは「単気筒焼玉エンジン」を見てください)は海から見て連絡船埠頭の左側とばかり思っていたのに実際は右側で、魚臭いあたりは横浜の赤煉瓦倉庫同様観光拠点となって若い男女が行き来している。そこから船に乗った。


湾内観光船は、煉瓦倉庫前を出ると真直ぐ南下して函館ドックに向かう。船内のうぐいす嬢がこのドックは弁天岬台場を壊して建設されたものだと説明している。そうかあ、昨日久し振りに行った五稜郭の博物館で聞いた海戦の場面がここだったのかと、感慨を新たにする。

 

慶応4年(1868年)の1月、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争の最後が明治2年の箱舘戦争で、1年半に亙る戦に終止符が打たれた。なんで1年半なんだという読者はかなり注意深い。実は慶応4年の9月8日に明治元年と改元されているから、この2つは同じ年になる。それはともかく、この箱舘戦争の中で行われたのが箱舘湾の海戦である。

 

当時、徳川幕府はかなり多くの軍艦を持っていたが、大政奉還で明治新政府にそれが引き渡された。しかし、それを潔しとしない旧幕臣榎本武揚は、8隻の軍艦を擁して慶応4年8月19日に品川沖を脱走、箱舘に向かった。が、運悪く嵐のため軍艦美加保は沈没、咸臨は清水港で新政府に拿捕された。どうも榎本の艦隊は運が悪かったようで、ことごとに軍艦を失っている。当時の軍艦が、乗組員の練度も含めて、日本近海の荒い海に適応できなかった面もあるのだろう。

 

ようやく箱舘の五稜郭を中心として旧幕臣軍は地歩を固めたかに見え、蝦夷共和国として独立を新政府に請願したのだが、そうは問屋が卸さなくて新政府は討伐軍を派遣した。派遣軍の中に当然新政府艦隊があって、宮古湾に停泊中旧幕臣軍の軍艦回天、幡龍、高雄からなる3艦の襲撃を受けた。新政府艦隊は甲鉄、春日、豊安、飛龍、戊辰など8隻で、旧幕軍の作戦はこのうちの新鋭艦甲鉄に接舷、乗っ取ろうというものだった。なにしろ甲鉄は装甲を施され、しかもガットリング砲を装備していたから、どうしても欲しかったのだ。これが宮古湾海戦である。


ここでも旧幕艦隊は運が悪く、各艦にはフランス人士官がそれぞれ1名乗っていたというが、荒天で幡龍が脱落、高雄は機関故障で同じく脱落、回天が単艦宮古湾に突入した。当初アメリカ国旗を掲げていたというから、奇襲の常道を知っていたのだろう。しかし、8隻対1隻ではいかんともし難く、又乾舷の高さの違いもあって奇襲は失敗に終わっている。この回天には陸兵隊総督土方歳三が乗っていたし、新政府艦隊の春日には東郷平八郎が乗組んでいた。歴史のつながりというのは面白い。


さて、箱舘湾海戦だが、これはもう箱舘戦争の大詰めといっていい海戦だ。新政府艦隊の作戦配備はとみると:
  陽春   :箱舘を挟撃させるため、湾外の大森浜に配置。
  甲鉄・春日:弁天岬台場の艦砲射撃。
  朝陽・丁卯:七重浜の陸軍援護の艦砲射撃。
  飛龍丸・興安丸:奇襲攻撃のための人員を乗せ、箱舘山沿岸に待機。
となっている。

 

これを迎え撃つ旧幕艦隊は、多くの船を失っていたために幡龍と回天だけだった。しかも回天は機関の故障で動けず浮砲台として沖の口で応戦、幡龍1隻だけが実質的に戦闘可能だった。劣勢をものともせず幡龍は奮戦した。その放った1弾が新政府艦朝陽の火薬庫を捕らえ、朝陽は爆発を起こし、猛煙を挙げてたちまち沈没したという。当時の海戦としてはかなり珍しいことではなかろうか。

 

しかし、衆寡敵せず丁卯、春日、甲鉄に追い詰められた幡龍は湾内奥の浅瀬に乗り上げ、持てる限りの弾丸を撃ち尽くした後、火を放って総員退艦した。回天も同様で、ここに旧幕艦隊は壊滅したことになる。明治2年5月11日のことである。陽春はそれから弁天岬台場を艦砲射撃、15日にはここを降伏させた。海からの援護のなくなった旧幕軍は甲鉄からの艦砲射撃も受け、それから3日あとの5月18日、五稜郭を開城して新政府軍に降伏した。京都から始まった戊辰戦争はここ箱舘で終結したのである。

 

帆走主体の蒸気艦の海戦から僅か26年後、日本海軍は機走だけの装甲艦で清国艦隊と砲火を交えた。その又10年後、1万㌧クラスの戦艦群が無線通信まで駆使してロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。そのスピードは1903年に始まった飛行機の進歩に勝とも劣らないだろう。ミサイルを装備した現在の軍艦を見てその進化のスピードを考えるとき、何となく恐ろしくなるのは、ぼくばかりだろうか。

 

2004.4.27.


巡視船いず

「バーのマダムに、ですか?」
「そう、その筋が持ち込んだらしいんですな。気の毒ながら、彼女は興味なんかない。私もそうですが。」
「それでこの貴重なものを、私に?」
という次第で、海上保安庁「観閲式及び総合訓練のご招待」という物々しい切符2枚が手に入った。


ぼくは以前に偶然出したはがきが当選して、海上自衛隊の観艦式(残念ながら演習日のものだったが)を見たことがある。自衛艦のブリッジに張り付いて見学したが、中々勇壮なもので、相模湾で行われた式の帰りは20ノット以上を出すから波をかぶらないように艦内に入ってくれといわれたほど活発だった印象がある。

 

うちのかみさんもこういうものには興味がないから、会員の小林秀正さんを誘って新港埠頭へ出かけた。何事にも興味を示し、一も二もなく賛成しておいて、いざという時になって実は私は船に酔うんですよ、という変な人だ。それでも乗り込んだ巡視船いずは3,500トンという大型船で、小さなボートに乗せられるのではないかと心配していた小林さんは大いに安心したらしい。

 

巡視船というのは自衛艦に比べるとはるかにサービスがいいが、これは船の構造も関係する。本船の記号はPL31でヘリコプター搭載船ではないが、ヘリが着船できる甲板を持っているし、ブリッジの上は船体ほぼ中央にあるメインマストまでかなりの広場がある。この2箇所に折りたたみのパイプ椅子をたくさん並べて座れるようにしてある。いずれも右舷側を向いているのはそちらを受閲船隊が通過するからだ。

 

観閲式というのは、観閲船隊と受閲船隊が行き違って敬礼を受ける形になる。本船は観閲船隊の先頭船で、2番船「やしま」には観閲官の石原国土交通大臣が座乗する(ぼくたちのときは2日目だったから、何とかいう副大臣だった)。これに函館から来た「つがる」、鹿児島から来た「おおすみ」が従う。

 

観閲式は相模湾ではなく羽田沖の東京湾が会場で、晴海埠頭から来る本隊を待って長い間停船する。副大臣が腹痛でも起こしたのじゃないかと心配するほど来ない。それでも、始まってみると、照りつける日差しもものかわ、これだけの巡視船を見る機会はちょっとないし、それもほとんど手に取るように、といっていい距離である。

 

受閲船隊は4つの小隊に分かれて、第1が大型巡視船と航路標識測定船、測量船。第2が1000トンクラスの巡視船、第3が200~300トンクラスの高速巡視船で、この中には高速の不審船を取り逃がした経験から建造された「ほたか」もいて40ノット以上を出せるという。第4が20~30メートル級の巡視艇で、その後に関係官庁艇のパレードがあったが、ぼくの印象では海上自衛艦「あさぎり」の異質さが目立った。

 

これは何も自衛艦がグレーに塗装されていたからばかりではない。確かに白一色の巡視船の中では目立つけれども、どだい船体構造が戦闘艦というのはまったく違う。排水量は同じ3500トンながら、乾舷の低さとシーアの鋭さと、何よりも戦闘檣楼の高さが遠景でもひどく目立った。もう一つは新聞でも大いに喧伝されたが、中国海事局の巡視船「海巡21」の初参加で、舷側のブルーの線の隣にある太い赤色が何となく中国を思わせる。

 

船の敬礼、というのも特徴がある。受閲船隊の各船は右舷に何人か並んで、行き違うときに、号笛でピーと伸ばし、ピ、で一斉に敬礼する。見ていて中々いいものだが、先頭船である本船と行き違ったときに敬礼する船(これは気持ちいい)、観閲官の座乗している2番船までぎりぎり待って敬礼する船(おいおい大丈夫か、という感じ)、忙しかったのか慌てて1人出てきてやっと敬礼が間に合った船(よかったね)、様々でとても微笑ましい。そこへ行くと自衛艦「あさぎり」はさすがというか、艦首から艦尾まで整然と並んだ乗組員が微動だにせず、登舷礼で悠々と通過したのは、意味こそ違うけれども、サイレントネイビーを想わせる。

 

やがて、轟音を響かせて受閲航空隊が飛び交う。7群に分かれて、ヘリコプターが主体ながら、ビーチ、サーブ、ファルコンに加えて、あの懐かしのYS11Aも姿を見せた。窓から手を振っている航空機を(総合訓練のときだが)、前を見なくて大丈夫かよ、とはらはらしながら見るのもまた楽しい。

 

ぼくたちはぼやぼやして遅く行ったものだから、終日立ちん坊で、前に座っているやみくもに締りなく太っているおっちゃんが立ち上がるのを、見えないから座ってなさい、とついたしなめたのも、あながち見えなかったからばかりではない。

 

こんなことまでやるのかと感心した総合訓練を終わって、新港埠頭への帰路、先行していた消防艇「FLひりゅう」がくるくる回りながら歓送の放水をしてくれた。一日中女性の海上保安官が説明の放送をしてくれたが、このときも「ひりゅうが皆様をお見送りしております」と声が流れた。それにしても消防艇は小回りが利く。フォイトシュナイダーペラでも使っているんだろうか。

 

4時間に及ぶ立ちん坊の経験から、観閲式へ行くときは絶対早めに乗船することをお勧めする。女性なら日傘とオペラグラスも必需品だろう。それとウインドブレーカー、船が動くと海上は晴天でも結構寒くなる。水も早めに買うこと(船内で冷たいのを売っている)。ただし、これは晴天であれば、という条件付きである。それにしても、またこんな機会があるんだろうか。ねぇ小林さん。

 

2004.10.2.


八甲田丸

青函トンネルが出来てから何年になるだろう。洞爺丸の海難事故が計画を後押ししたというが、そのときぼくはもう函館の学校を卒業していた。トンネルの完成も遥か昔のことだが、まだ一度もこのトンネルを通っていない。函館に仕事があったのを幸い、往路の飛行機はさっぱり忘れて、青函トンネルをくぐろう。そう思い立った。ついでに、といっては申し訳ないが、山形県は鶴岡にお住いのぼくの幼稚園の先生を訪ねてみたい。


ところが、新幹線の通っていない鉄道は全くもって不便に出来ていて、函館から鶴岡まで延々7時間43分の汽車旅を強いられる。まあいいか。急ぐ旅でもなし、ゆっくり外が眺められる。ぼくは指定席を無視して左舷側の席に座るぞ、と決心をした。海が見える。

朝7時、9月の始めとはいえまだうすら寒いような中、ゴトンと汽車が動き出した。指定席を無視するなんて力むほど乗客はいないし、席は左側だった。江差線という昔懐かしい名の分岐点、木古内駅を過ぎ、知内駅を通ると線路が直線になり、ゴトンという音が消えてゴーと列車が走る。ああロングレールになったんだ、と青函トンネルへの期待が高まる。そしてトンネル。なんの変哲もない25分間だった。なんということもない旅をさせるために、どれだけの努力と犠牲が払われたことか。当事者でなければ本当のことは分からないんだなぁ、と思う。

 

ところで、このスーパー白鳥という列車の終点は八戸で、従ってぼくは通過駅の青森で乗り換えになる。どだい青森駅といえば誰がなんと言っても「終点」だった。だから線路は海に向かって切れていて、その先に待つ青函連絡船へ脱兎のごとく走ることになる。通過駅になったばっかりに、「停車中に周りのお客様と相談して席の回転をお願いたします」なんて間の抜けた車内放送をしなければならない。

 

ぼくはそんな間の抜けた作業をしないで済んだが、秋田へ向う「かもしか2号」に乗り継ぐのに1時間と6分ある。それを幸い、近間に係留している連絡船を見ようと、脱兎のごとく走りはしなかったが足を速めた。とかく連絡船は人を急がせる。


八甲田丸。総トン数5,382.65㌧、全長132.0㍍、全幅17.9㍍、速力18.9ノット。懐かしいなあ。学生時代になんべん連絡船に乗ったことか。洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸などは当時新鋭船だった。が、それにしてもなんかおかしい。こんなにスマートだったかな、もっとドン臭かった筈だが、なんでだろう。

 

後で 調べて分かったのだが、これらの船は改装している。最初は蒸気タービンで、そのために両舷2本ずつ合計4本の直立煙突があった。頭が黒で、オレンジ色に塗 られた煙突には赤で「工」のマークが描かれている。国鉄時代のことだ。やがて機関は1600馬力8基のディーゼルエンジンに替わり、排気が少なくなったか らだろう、短い流線型のファンネル1基になった。しかも頭がグレー、上下のオレンジ・ラインを挟んだ中央には白地に赤でJNRとある。ファンネルのデザイ ン一つでこうも印象が変わるものか。


ここでは現役時代には絶対に入れなかったところを隈なく見せてくれる。連絡船特有の車両甲板に入ると、かなり広くてワムの貨車なら48両収容とある。森閑とした甲板から見ると貨車も客車も随分と大きい。その下のエンジンルームも上から覗ける。


三等船室と言うんだろうか、ぼくが常用した薄ペラじゅうたん敷きの船室も、大正時代の風俗として再現されているが、こんなに狭かったかなあ。おそらく1つ 下、車両甲板のすぐ上にもっと広い面積を持っていたのだろう。それでなければ1,286名を収容できない。そのデッキを1つ上がると「特別二等席」があっ た。プロムナードに添ってリクライニングの椅子が2列に並んでいる。これこれ。ぼくが卒業して「内地」に引き揚げるときに、奮発して座った席で、貧しい学 生に金の価値を教えてくれた。


ファンネルの中はかなり広くて本物の煙突は一抱えもないだろう。そのてっぺんは展望台になっていて、文字通り360度の展望が開ける。ふと下を見ると、外 国人の小学生と思しい一団が賑やかに上がってくる。ほとんどが金髪の白人で、若い女の先生に引率されている。つい黙っていられない。
「アー・ユー・フロム・US?」ときいてみる。彼はまじまじとぼくを見て不思議そうな顔だ。これはいかん。「ホェア・ドゥ・ユー・カム・フロム?」彼はもじもじと友達の後ろに隠れようとする。そのとき少し大きな少年がにこにこして出てきた。


「フロム・ルッシア!」そうかぁ。悪い癖で、外国人だとアメリカ人と思う。ロシアの少年か。その少年は単語だけの英語で、サハリンから来ていると教えてくれた。世界は狭い、青森はもうサハリンの修学旅行地になっているんだ。

 

 

 

 

2004.1.20.

 


船のにおい

内房州に富浦、というところがある。久しく訪れていなから今どうなっているか分からないが、昔はのどかな漁村だった。ぼくが小学校に入る前後、普段子供たちと遊んでくれるような父親でなかったから罪滅ぼしの気持ちもあったのかもしれない、毎年夏休みになると母とわれわれ子供たちをこの富浦に送り出してくれた。


当時の内房線はもちろん蒸気機関車で、汽笛一声、ガチャガチャと連結器を引っ張る小さな音がしたと思うと、ゆっくり音もなく列車が動く。ガチャンと扉が閉まってゴトンと電車が動くのとはまったく違う優雅さがあった。細かい炭塵が舞い込むのは閉口だったが、石炭を焚く匂いとぼっぼっという蒸気機関の音、トンネルや鉄橋に差し掛かるとどういうわけか鳴る汽笛に、遠くへ旅をするんだと心が躍った。やがて軍事要塞を通過するから海側の窓のよろい戸を閉めてくれと、もちろん車内放送などはないから車掌さんが触れて回るとほどなく富浦に着く。


漁村の一軒を借りて、われわれと親類の何人かが一夏を過ごすのだが、父の思惑に反してぼくは水泳には熱心になれなかった。おかげで今でも徳利、つまり口から水さえ入らなければ浮いていられる程度にしかなっていない。その代わり、地引網と漁船には大いに興味をそそられた。富浦はわりと遠浅の海で子供の水泳には適していたが、魚も豊富で毎週のように地引網が曳かれるとたくさんの魚がかかった。


地引網を引く主役は、浜の奥に設置された木製のキャプスタンだが、海に延びる長い綱には誰でも取り付いて引っ張っていい。それが手伝ったということになって網にかかった魚のいくばくかをもらうことができるのだ。ぼくは綱につかまってぴょんぴょん飛び跳ねたあげく、用意のバケツに一杯のイワシやらアジやらをもらって意気揚々と引き揚げる。朝っぱらから、庭にしつらえた七輪の炭火の上で焼いたアジの塩焼きを、あっちっちといいながら頭と尻尾をつかんでむしゃぶりついたら、この世のものとも思えないほど旨かった。

 

やがてぼくは漁師のおじいさんと仲良くなった。当時でも浜の漁船は小さな焼玉エンジン付きで、ポンポンとのどかな音を立てて往来していたが、そのおじいさんの 船は1本の艪(ろ)が付いているだけだった。艪というのは不思議な推進装置で、3メートルもありそうな長さの大部分は水に入っている。船の上

の先 端少し手 前に甲板と艪をつなぐ綱があって、左右に動かすことができる。その支点になっている部分にヘソと呼ばれる突起があり、艪の支点の下に取り付けられた半円形 の部品のくぼみにそのへそが入って支点がずれないようになっている。つまり、先端を左右に動かすことで艪は斜め交互に水を切り、それが推進力となる仕掛け だ。

 

沖に出てみるかね、といわれて一も二もなく乗り込んだ。艪の操作は難しい。下手をすると船はその場でぐるぐる回るばかりだが、さすがはおじいさん。ゆっくり 艪を操るのだが、船は意外な速さで沖を目指す。魚場に着くとおじいさんは竿を取り出して釣りを始めた。すぐに比較的大きな魚がかかる。船底で跳ねる魚を押 さえながら、おじいさんはそこの板を開けてみろという。底板をあけるとその下が水槽になっていて、ボチャンと入れられた魚が元気に泳ぎだす。

 

ぼくは船底にペタンと横になって水槽を覗き込んだ。陽の光が四角くなって水に入り込む。次々に入れられる魚は、大きいのも小さいのも元気に泳いでいる。船は ゆっくり左右に揺れ、そのたびにぴちゃぴちゃと波が船底に当たる音がする。この船は随分使い込んでいるはずだが、木製の風呂桶のようなにおいがするし、そ れが潮のにおいと交じり合って「海」のにおいを思わせる。

 

「おー、見てみな、航空母艦が来てる」
おじいさんの声に目を上げると、なるほど彼方に黒々としたまっ平らな船が見える。おじいさんは早々に釣りを止めて航空母艦を目指した。珍しい出来事だった に違いない。かなりの時間漕いでごく近くまで行ったが、おじいさんはそれ以上近づくことをせず、船を流して母艦を見上げた。ぼくは詳しいことを思い出せな い。ただ、小さな漁船から見上げた航空母艦がやたらと大きく、黒く、天まで聳えているように見えたことだけは忘れられない。艦形と時代から見ると、おそら く赤城か加賀だったのではあるまいか。

 

FRP の船殻とディーゼルエンジンの漁船が増えて、それはそれで勇ましいが、ぼくは浜でたまに木造の古い漁船を見かけるといつも富浦を思い出す。それに連れて、 浮き輪つきでも泳ぎ疲れたおやつの時間に、母がいつもくれた顔の倍もありそうな大きな半円形のスイカ煎餅が、どうして今売っていないのだろうと不思議に思 うのだ。

 

 

 

2004.12.2.

 



 42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro
42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro